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第518話

ーー幸せ。 本当は泳ぐ気なんかなかったくせに、俺が望んだというだけで、迷わずこうしてそれを叶えてくれる。 好きだなぁ…。 出会った当初は、この人をこんなにも好きになるなんて、想像もしていなかった。 「ありがとうございます」 万感の思いをその一言に込めて。 チュッ、と唇を軽く、火宮の頬に触れさせた。 「ククッ、可愛いことをして」 塩っぱ!と思いながら、へらりと笑ってしまった俺は、ふと、キシキシと砂浜の砂を踏み鳴らしてこちらに近づいてくる足音に気づいて、そちらを振り返った。 「真鍋さん?」 うわー。この暑い中、見事に着崩しもしていないスーツ姿って…。 しかも手に持っているアタッシュケースはなんなのか。 真夏の浜辺に不似合いなことこの上ない。 「あぁ、来たか」 そんな真鍋に火宮も気づいたのか、ニヤリと笑って、何故か俺をひょいと抱き上げてきた。 「火宮さん?」 「クッ、上がるぞ」 俺を抱き上げたまま、ザブザブと波を掻き分けて浜辺に戻っていく。 「え?」 もう海水浴はお終い? 楽しかったのに…。 名残惜しくて、ムーッと唇を尖らせてしまった俺を、火宮がクックッと笑いながら見下ろしてきていた。 「お疲れ様です、会長。どうぞ」 スッと火宮にタオルを差し出しながら、真鍋がチラリとこちらに視線を向けてくる。 その目がどことなく俺のことを責めているのは気のせいか。 まぁ、火宮をこんな姿にしたのは俺だけど…。 半裸の海水まみれ。しかもズボンは普段着の洋服のまま。 真鍋の非難の視線も分からなくはない俺は、ヘラッと誤魔化すような笑みを浮かべた。 「ふっ…。それから、会長。こちら、ご命令のお品物です」 人を小馬鹿にしたように鼻を鳴らした真鍋が、やけにわざとらしく見せつけるように、アタッシュケースを火宮に差し出す。 「あぁ。それもそういえば命じていたな」 濡れた髪をガシガシと拭きながら、火宮が忘れていた、と笑う。 「護衛たちは下がらせましたので、どうぞご存分に」 それは一体何の話なのか。 「火宮さん?」 不思議に思って首を傾げたら、クックッと可笑しそうに喉を鳴らした火宮が、薄く目を細めた。 「身の危険を心配させるようなたちの悪い嘘をついたことへの仕置きをしてやろうかと思っていた」 あぁそういえば、火宮が海に入ってくるその前に、部下さんたちの1人に何か耳打ちをして命じていたっけ。 「だが、ほんの可愛い我儘とおねだりだったからな」 もういい、と微笑む火宮に、けれども何故か真鍋の方が納得していないようだった。 「会長に偽りを述べ、身の心配をさせるなど、重罪です」 たっぷりと叱られなさい、と、真鍋がパカッとアタッシュケースの蓋を開ける。 「っ!」 な、なにそれ…。 手枷に足枷にコックリング。 何度か見たことがあるそれらの拘束具から。 「なっ、なっ…」 大小様々なバイブ…は分かるけど、その針のない注射器みたいなやつは…。 「ふっ、このシリンジは、ローション浣腸をお受けいただくものですね」 は? いや、にこりじゃないから。 口元しか笑っていない、その完全に作り物の笑顔。しかもその変態じみた台詞ってどうなの?! 自分の顔からザァッと血の気が引く音が、確かに聞こえたような気がした。 「っーー!」 それで、もう聞きたくないけど、目に入っちゃったその楕円形の白い球体は…。 「これは、擬卵です」 擬卵…。多分プラスチック製か何かだろう、その物体の、用途はもう知りたくない。 なのに意地悪な真鍋の口は、余計なお世話を焼いていく。 「いくつかアナルに押し込み、ひり出させて産卵プレイでもなさるのでしょう」 あぁ浜辺だし、うってつけですね。 「って、ちがーーうっ!」 思わずノリツッコミをしてしまった俺は、完全に青褪めながら、まさかしないよね?と、火宮を恐る恐る窺った。 「ククッ、真鍋。それくらいにしておいてやれ」 「っ!」 よかった。やっぱり火宮にその気はないようで。 「はぁっ。ですから会長、あなたは本当に翼さんには甘すぎます」 深い溜息と共に、パタンとアタッシュケースを閉める真鍋にもホッとする。 「クッ、そうやっておまえが代わりに咎めているから十分だろう?」 見ろ、翼の怯え切った顔、と楽しげに笑う火宮に、ぎゅっと眉を寄せてしまう。 「まぁ、次はないがな」 今度火宮を謀るような真似をしたら、問答無用でお仕置き。 わずかに低くなった火宮の、本気の滲む声を聞いて、俺はゴクリと生唾を飲み込んだ。 「もうしません、ごめんなさい」 確かにもしも逆ならば、心配させるような嘘をついた火宮を、俺は怒るだろう。 しゅんと俯いた俺にクックッと笑って、火宮がポンと頭に手を置いた。 「ほら。戻ってシャワーを浴びるぞ」 海水でベトベトだ、と苦笑する顔は優しい。 「っぁ、はいっ」 そうだ、この人。俺の我儘をあっさりと聞いてくれて、絶対にしてくれないと思っていた海水浴を、一緒に楽しんでくれたんだ。 「ふふっ」 おかげでとてもとてもいい思い出が出来た。 ふにゃりと緩んでしまった顔を、火宮に可笑しそうに見下ろされる。 ふわりと甘い幸せが心を満たし、にやにやがずっと止まらなかった。 「火宮さん」 「ククッ、なんだ、翼」 あなたを、俺は。 ずっとずっと大切にしていきます。 火宮の腕に、ぎゅぅ、と体重をかけるように絡みついた俺は、「なんでもありません」と火宮に微笑みかける。 「そうか」と笑った火宮には、けれども俺の心は伝わっているらしかった。 「はぁっ。まったく、このバカップルが」 呆れたような真鍋の声は、波が聞かせた幻聴だということにしておこう。

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