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第546話

翌朝。 目覚めたときに、珍しくまだ火宮がいて。いつもと違って、なんだか少しピリピリとした空気を纏っていた。 「ん…おはようございます、火宮さん」 「あぁ、翼。おはよう」 リビングで、きゅっとネクタイの結び目を締めた火宮が振り返る。 「あ…、えっと、今からお仕事ですか?」 なんとなく緊張感のある空気に怯んでしまいながらも、コテンと首を傾げた俺に、火宮が薄く目を細めて首を振った。 「今日は本家に呼ばれている。今からそちらに向かうところだ」 「本家に…」 それでピリピリしているの? いつもは本家に行くと言っても、緊張感の欠片もなかったこの人が。 「あぁ。今夜は遅くなるかもしれないが、翼はのんびりと留守番していろ」 「そうですか。わかりました。でも、火宮さん」 「なんだ」 「えっと、その、無理しないでくださいね?」 なんだかわからないけど、勝手に口が動いてしまった俺に、火宮の目元がふと緩んだ。 「はっ、敵わないな」 「え…?」 「まったくおまえは…」 「あの、火宮さん?」 「ククッ、こちらの話だ。ただ、そうだな。ちょっと厄介事があって、面倒な話が持ちかけられるだろうと予想がついているからな」 本家からの呼び出しの理由か。 「うっかり不機嫌が漏れたか」 「そう、ですか…」 「俺は相当おまえに甘えているらしい。ククッ、まぁ、行ってくる」 ぽん、と頭に乗せられる手が、ふわりと優しく髪を撫でる。 「んもう、なんですか」 普段は呆れるほど意地悪なくせに、時々こうして穏やかに微笑んで見せるのが、本当ずるい。 そのギャップにすっかりやられてしまうんだから、まったくたちが悪いったらない。 「ククッ、いってらっしゃいのキスは」 「はぁっ?んな…もうっ!」 「ディープなやつな?」 だから、この人は…。 穏やかな姿に見惚れていればこれだ。 まったくブレない意地悪っぷりに、けれどもそれが火宮だと安心してしまう。 「んべーだ。行ってらっしゃい、刃」 たまにはギャフンと言えばいい。 せっかく綺麗に結ばれたネクタイをぐいと引いて、顔を近づけさせた火宮の唇に、ぶつかる勢いで唇を重ねてやる。 ぱくりと唇に噛みつき、チロチロとそこを舐めてやればゆるりと開く火宮の唇の、その隙間にすかさず舌を差し込んだ。 「んっ、ふ…っ」 鼻にかかった吐息はどちらのものか。 ぬるりと絡まり合う舌が、互いに互いの領土へと誘い込むようにうごめき合う。 「んっ、あっ、はっ…」 ずるりと舌を吸い寄せて、勝った、と思った瞬間、反撃とばかりにぞろりと上顎の裏を舐められた。 「んぁぁ、ふぁっ…」 やばい、そこ、弱いんだって。 ガクガクと、震えてしまった膝から力が抜ける。 「んぁぁっ、アッ、んは…」 「クッ…」 ぎゅぅ、と引いてしまったネクタイで首がしまったのか、苦しそうな呻き声を上げた火宮が、そっと俺の手をスーツのジャケットへと移動させた。 「あぁっ、んぅ…」 たら、と飲み込み切れない唾液が唇の端から零れ落ちる。 ぎゅぅ、としがみついてしまった高級スーツがくしゃりと皺になった。 「あっ、はっ…」 降参っ、ギブアップ! 頭の芯がジーンと痺れていく中、俺はかろうじて、ガクンと崩れた身体を火宮にもたれさせた。 「ククッ、ごちそうさん」 ペロリと濡れた唇を舐めた火宮の赤い舌がやけに色っぽい。 くっそぉ、やっぱり俺の負けか。 出がけ前に挑んだキスに、火宮の余裕は少しも失われない。 すっかり快楽に堕ちたのは俺の方で、涼しい顔をした火宮は満足そうにネクタイを整えなおし、スーツの皺を軽く伸ばしている。 「ほら、翼。自力で立てるか?」 火宮にもたれていなければ、床に崩れてしまいそうな俺の状態を分かっていて、ニヤリと意地悪く吊り上がる唇の端が見えた。 「っ、このどSッ」 本当、火宮はブレなく火宮なんだから。 「ククッ、好きなくせに」 「俺はMじゃないですっ」 あぁ、久しぶりのこの台詞。 「そうか?なぁ、真鍋」 不意に、悪戯っぽく目を細めた火宮が、リビングの入り口を振り返った。 「え…?」 「はぁっ、ですから、あなた方は…」 「っ、い、いつから…」 まったく気配なんて感じられなかった。 なのにいつの間にか、リビングの入り口には、ピシリとブラックスーツを決めた真鍋が立っていて。 「いくらお呼び立てしましても、お返事がありませんでしたので」 上がらせていただきましたって? 「会長、すでにお時間です」 冷ややかに告げる真鍋に、火宮がニヤリと頬を持ち上げた。 「ギリギリまで眺めていてよく言う」 「お気づきでしたら、さっさと切り上げてくださればいいものを」 「翼がせっかく濃厚な見送りをしてくれているものを、中途半端にしたら可哀想だろう?」 「んなっ…」 この会話。この人たちはぁぁっ! 「もう知らないですっ。さっさと出掛けてください!バカ火宮ぁっ」 もうやだ、恥ずかしい…。 どんっ、と火宮を真鍋の方に突き出して、ぎゃぅっ、と大声で喚いてやる。 「クックックッ、見ろ、この可愛い態度」 「理解いたしかねます」 「帰ってきたら仕置きだぞ」 「えっ…?」 ニヤリと向けられた妖しい笑みは、今度は俺に向かっていて。 「どSだ、バカだと、まさか無意識に言っていたわけではあるまい」 「っ、それは…」 そりゃ、分かっていて暴言を吐きまくっていたけど…。 「じっくりと覚悟を決めて待っているといい」 ククッ、となんとも楽しげに喉を鳴らした火宮が、じゃぁなと言い置いて真鍋とリビングを去っていく。 「っーー!」 もう、本当、どS、意地悪、バカ火宮! さすがに今の今で口には出せない暴言を、ゆっくりと閉じていくリビングのドアに向かって内心で吐きつけまくる。 「はぁぁぁぁっ」 パタン、と閉まったドアのこちら側で、どうにか意地でかろうじて踏ん張っていた足が、ガクンと崩れて床に座り込む羽目になった。 「でも、あれ…?」 なにか大事なことを聞いて、何かを誤魔化されてしまった気がする。 けれどもそれがなんだったのか、どうしても思い出せない。 「んー…」 ペタリと手のひらをついたリビングの床が、じわじわと俺の熱で温まっていく。 その箇所だけが随分と他より温度を上げるまで、俺はその場から立ち上がれなかった。

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