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第555話
「っ、俺…」
「翼」
「っ、はい」
「この話はこれで終いだ」
「あの、でも…」
「終いだ」
ピシリと鞭打つように言われれば、俺にはそれ以上食い下がることは出来なかった。
「は、はい…」
「さてと、せっかくホテルに呼び出したんだ。ホテルのレストランでディナー、といきたいところだが、そういう事情があってな」
「あ、はい」
「それにおまえもそんな恰好だし、今日はルームサービスにしよう」
真鍋、と呼びかける火宮の声に、真鍋はそれだけで指示を察したらしく、スッと頭を下げて、リビングから消えていく。
「はは、俺ももうね、さすがに慣れてきた…」
火宮の呼びかけだけで、その意を完璧に汲んでみせる真鍋のこと。
それが当然と、なんの疑問もなく火宮が受け止めていること。
『それを俺が、邪魔していいのかなぁ』
「翼?」
「っ、な、んでもないです」
にこりと浮かべた笑みは、成功していただろうか。
俺がいなかったらもしかして、あなたは真鍋と2人、その高みを目指しましたか?
口には出来ない問いかけが浮かんでは消え、黙って引いていった真鍋の後ろ姿を目が追いかける。
自身も相当な実力者の真鍋が、唯一絶対と定めて従う、火宮の上へ上へと続く道。
俺のために、2人のその未来(さき)を、諦めさせていいのだろうか。
「っ…」
「翼」
くしゃりと歪んでしまった自分の顔を自覚した。
それを咎めるかのように、低く静かに火宮が俺の名を呼んだところに、ふとリビングから消えていた真鍋が戻ってきた。
「失礼いたします。ディナーの手配が完了しました。翼さん、メインの料理ですが、肉でよろしかったでしょうか」
淡々とした無表情で、バッチリと俺の欲しいところに手を添える。
「っ、はい…」
「ククッ、どうせ俺の方は魚にしたのだろう?翼が望めば、俺はどちらでも構わないと交換してやることを見越してな」
「申し開きもございません」
ほら、その上こうして抜かりない。
火宮のことを完璧に理解し、その火宮が望むというだけで、俺なんかに道を譲れるこの人は…。
『敵わない…』
ツン、と痛くなった鼻の奥を、ケホケホと咳で誤魔化し、俺はニッと顔を上げて、火宮にじとりと目を向けた。
「メイン料理を肉か魚かって、まさかまたフルコースですかっ?」
俺が苦手なの、知ってるくせに。
「ククッ、今日はこの部屋だぞ?誰が見ているわけでもあるまい」
「でも」
「クッ、いつまでたっても本当に慣れないな。そんなにマナーが気になるのなら、語学のついでに、各国のあらゆるテーブルマナーも、真鍋に仕込ませるか?」
ニヤリ、と愉しげに笑う火宮は、俺がこの鬼教官を苦手としていることも知っていて。
「くぅっ、どSっ。でも、テーブルマナーは、出来るようになりたいです」
せめてあなたの連れとして。あなたの隣に立ち並ぶ人間として、恥ずかしくない程度には、俺に出来ることはしていきたい。
「ククッ、だ、そうだ、真鍋」
「かしこまりました。では早速、本日のご夕食から、ご指導にあたりまして、よろしいでしょうか?」
クスッと、珍しく笑い声を上げた真鍋が、何故かどこからともなく、短鞭を取り出して、パシッと自分の手のひらでそれを打ち鳴らした。
「は?え…?」
「ククッ、せっかく共にと思っていたが、まぁ致し方ない」
「えっ?ちょっ、待っ、火宮さんっ?」
スッと立ち上がった火宮が、さも愉しげに唇の端を吊り上げ、ダイニングテーブルの方へと歩いていく。
「あなたはこちらです」
火宮を追おうと立ち上がりかけた身体が、ぐいと真鍋に引き寄せられる。
「ぐぇっ…」
その引き寄せ方が首根っこを引っ捕らえるっていうのは…。
俺、あなたの会長さんの大事な方、じゃなかったんですか?!
「真鍋幹部、ディナーが来ました。ボディチェックは済んでいます」
反射的にジタバタと暴れた俺を捕らえた真鍋の側に、ふと気配もなく池田がやってきた。
「分かった。魚メインの会長の分はあちらに」
「はっ」
「翼さんの分は、そちらのテーブルへ」
「了解しました」
真鍋の指示で、ワゴンが2つ、火宮が座った立派なダイニングテーブルと、その下座辺りに据えられた、簡単なティータイムを取るときにでも使うのだろう4人掛けのテーブルへ、それぞれ運ばれていく。
「っ…」
どうぞ、と言わんばかりに、スッと静かに椅子を引かれては、もう俺は覚悟を決めるしかなくて。
「はぁっ…」
仕方なく、真鍋に引かれた椅子に腰掛けようとした瞬間。
ピシッ!
「ひぁっ!な、なんでっ?」
いきなりお尻に鞭が飛んで来て、座ろうと屈めた腰を、ピーンと伸ばす羽目になった。
「痛いーっ」
ムゥッ、と真鍋を恨みがましく睨みつければ、シラッとした無表情で、冷ややかな目だけが俺に向けられていた。
「着席は席の左側からです」
「え…」
そんなことまで決まっていたの?
「もちろん退席も、お席の左側からですので」
お忘れなく、と、ピシリと鞭を鳴らして言われてしまえば…。
「は、はい…」
全面降伏で、大人しく従うほか、俺に選択肢など存在しなかった。
「ククッ…」
給仕に席を引かれながら、当たり前のように完璧なテーブルマナーで、席に座った火宮の方から、堪え切れないといった笑い声が聞こえてきたのは、もう憎らしい以外のなにものでもなかった。
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