564 / 719
第564話
『っ、俺は、本当にただの子供で…』
庶民で、無力で。
『本当は、こんな大人の人に、付き従ってもらうような高級な人間じゃないんですよ』
『そうですか』
『はい。だけど俺の大事な人がね、本当に何もかもを持っているような人で、その人と、その…』
『恋人関係?』
『っ、は、はい…。そういう、立場だから、俺に、その人の部下のこの人をつけてくれているっていうか』
『なるほど』
聞きながら、ぱくりとクレープにかぶりつくアキの様子が、俺の口をふわっと軽くした。
『俺は、俺自身はなにもできない。あげられるものは心と身体、俺自身だけしかなくて…』
『ふむ』
『本当は俺に、こんな風に部下の人を貸してもらう価値なんて、ない、の、に…』
『翼…?』
こてん、と首を傾げるアキの目はとても優しくて、何もかもを包み込んでくれるような気がした。
だから、頭の中をぐるぐると回っていた言葉が、するりと口から零れ出す。
『俺は…っ、俺は、その人の助けになるどころか、その人の出世の邪魔をして、足を引っ張ってるっ…』
『翼…』
『その人は、俺が俺のまま、ただ側にいてくれればそれでいいと、俺はそのままでいいと言ってくれるけれど』
『はい』
『俺はっ…その人の、足枷になっているっ…』
ぎゅぅっと力を入れてしまった手の中で、今度こそクレープがグシャリと握りつぶされ、クリームがだらっと溢れてしまった。
『翼』
『俺はその人の隣に立つ人間として…その人に見合うだけの人間になりたいと思ってるっ。だけどその人はなんでも先回りして、俺に負担がないように、俺のことを1番に考えて…今回もまた、俺に何も強いることなく、俺の存在を優先して、上に上がるチャンスを捨てる気でいる…っ』
『翼…』
『俺はっ…その人の邪魔にしかなっていないっ』
ぎゅぅっと唇を噛み締めたところで、ふと池田の気配がゆらりと揺らいだ。
「っ、翼さん。それは違いますっ」
ガバッと肩を掴まれて、俺はふらりと顔を上げた。
「池田さん、でも…」
「っ、違います」
「っーー!違いませんっ。違いませんよね?あなただってっ、本当は、火宮さんに理事の座について欲しいと思っているはずですっ」
「それは…」
肩を掴む手の力が微かに弱まったのが、その本音だ。
「俺の存在1つに、出世の道を捻じ曲げる火宮さん…それに、本当に納得、していますか?」
「っ、して、います」
苦しそうに声を絞り出した池田の手が、するりと俺の肩から滑り落ちていった。
「ふっ、俺は、してませんよ」
「翼さん…?」
「俺が、背中を押さなきゃならない」
「翼さん…」
「俺が、もっと強く、もっとたくましく。七重組の理事となった火宮さんの隣にも、堂々と立つ自信と力と覚悟を持てば…」
ギッと持ち上げた視線に、ギリギリと力が入っているのは分かっていた。
『翼』
『っ?…ア、キ、さん…?』
不意に、知らずのうちに握り締めてしまっていた拳に、アキの指先が優しく触れた。
『翼。苦しいなら、来ますか?』
『え…?』
『そんなに辛い顔を、苦しい顔をさせる相手の手など、離してしまえばいい』
『え…』
ぽかんと開いてしまった口から間抜けな1音が漏れ、ぼたりとすでに原型を留めていなかったクレープが足元の地面に落ちた。
『互いを苦しめ合う関係など、捨ててしまえばいい』
ね?と微笑むアキの顔は、とても優しく、綺麗で無邪気で。
スッ、と差し出された手に、ふらりと吸い寄せられた視線が、ピタリととまった。
ともだちにシェアしよう!