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第564話

『っ、俺は、本当にただの子供で…』 庶民で、無力で。 『本当は、こんな大人の人に、付き従ってもらうような高級な人間じゃないんですよ』 『そうですか』 『はい。だけど俺の大事な人がね、本当に何もかもを持っているような人で、その人と、その…』 『恋人関係?』 『っ、は、はい…。そういう、立場だから、俺に、その人の部下のこの人をつけてくれているっていうか』 『なるほど』 聞きながら、ぱくりとクレープにかぶりつくアキの様子が、俺の口をふわっと軽くした。 『俺は、俺自身はなにもできない。あげられるものは心と身体、俺自身だけしかなくて…』 『ふむ』 『本当は俺に、こんな風に部下の人を貸してもらう価値なんて、ない、の、に…』 『翼…?』 こてん、と首を傾げるアキの目はとても優しくて、何もかもを包み込んでくれるような気がした。 だから、頭の中をぐるぐると回っていた言葉が、するりと口から零れ出す。 『俺は…っ、俺は、その人の助けになるどころか、その人の出世の邪魔をして、足を引っ張ってるっ…』 『翼…』 『その人は、俺が俺のまま、ただ側にいてくれればそれでいいと、俺はそのままでいいと言ってくれるけれど』 『はい』 『俺はっ…その人の、足枷になっているっ…』 ぎゅぅっと力を入れてしまった手の中で、今度こそクレープがグシャリと握りつぶされ、クリームがだらっと溢れてしまった。 『翼』 『俺はその人の隣に立つ人間として…その人に見合うだけの人間になりたいと思ってるっ。だけどその人はなんでも先回りして、俺に負担がないように、俺のことを1番に考えて…今回もまた、俺に何も強いることなく、俺の存在を優先して、上に上がるチャンスを捨てる気でいる…っ』 『翼…』 『俺はっ…その人の邪魔にしかなっていないっ』 ぎゅぅっと唇を噛み締めたところで、ふと池田の気配がゆらりと揺らいだ。 「っ、翼さん。それは違いますっ」 ガバッと肩を掴まれて、俺はふらりと顔を上げた。 「池田さん、でも…」 「っ、違います」 「っーー!違いませんっ。違いませんよね?あなただってっ、本当は、火宮さんに理事の座について欲しいと思っているはずですっ」 「それは…」 肩を掴む手の力が微かに弱まったのが、その本音だ。 「俺の存在1つに、出世の道を捻じ曲げる火宮さん…それに、本当に納得、していますか?」 「っ、して、います」 苦しそうに声を絞り出した池田の手が、するりと俺の肩から滑り落ちていった。 「ふっ、俺は、してませんよ」 「翼さん…?」 「俺が、背中を押さなきゃならない」 「翼さん…」 「俺が、もっと強く、もっとたくましく。七重組の理事となった火宮さんの隣にも、堂々と立つ自信と力と覚悟を持てば…」 ギッと持ち上げた視線に、ギリギリと力が入っているのは分かっていた。 『翼』 『っ?…ア、キ、さん…?』 不意に、知らずのうちに握り締めてしまっていた拳に、アキの指先が優しく触れた。 『翼。苦しいなら、来ますか?』 『え…?』 『そんなに辛い顔を、苦しい顔をさせる相手の手など、離してしまえばいい』 『え…』 ぽかんと開いてしまった口から間抜けな1音が漏れ、ぼたりとすでに原型を留めていなかったクレープが足元の地面に落ちた。 『互いを苦しめ合う関係など、捨ててしまえばいい』 ね?と微笑むアキの顔は、とても優しく、綺麗で無邪気で。 スッ、と差し出された手に、ふらりと吸い寄せられた視線が、ピタリととまった。

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