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第565話

「翼さんっ!」 バッ、と突然、池田の背中が目の前に見えて、俺はハッとその姿を見上げた。 『あ、の…?』 きょとん、と無邪気に首を傾げたんだろうアキの声が、池田の向こうから聞こえてきた。 「あ…。あの、池田さん、いいです。大丈夫です」 アキが多分、池田の危機センサーに引っ掛かる、そんな距離に入ってしまったのだろう。 ピリッとした池田が俺たちの間に割り込んで、俺を庇うように立ちはだかったことで、俺はそれに気がついた。 「ごめんなさい、大丈夫です。俺がちゃんと、話します」 ツンツンと後ろから池田の袖を引き、俺は小さく首を振った。 「翼さん」 「はい、大丈夫です。俺がちゃんと話しますから」 にこりと微笑んで、池田に頷いて見せれば、池田は黙ってスッと頭を下げ、俺に前を譲ってくれた。 『あの、アキさん』 『はい』 『ご心配はありがとうございます。それから、つい愚痴ってしまってすみませんでした』 『いえ』 『あの、だけど俺は、何があっても、どんなことが起きても、その人の手を離す気はないんです』 そっと撫でた左手の指輪は、まだジリジリと熱く、痺れるような重みを感じるけれど。 『どれだけ苦しくても辛くても、俺が取る手はその人の手だけ。他のどんな誰かの手が差し伸べられても、俺が取りたい手は、その人の手だけなんですよ』 ふふ、と笑ってしまった俺に、アキの目が軽く瞠目した。 『その人の足を引っ張ると言いながら、その手を離す気はないと?』 『そうですよね。酷い話ですよね。だけど、だけど俺はね、俺がその人の手を離すことを選ぶということが、その人にとって最悪の選択肢だって知っているんです』 そう、火宮が1番望まないこと。 火宮の心を、俺はもうちゃんと理解している。 『俺の存在が出世の妨げになっている。俺がいなければ、俺がいなかったら…そう思っていたけど、違うんです…違うんですよね』 ふわりと溢れてしまった笑みを、俺は自覚した。 『翼?』 『うふふ、自惚れですけど…』 そうだ、火宮は、俺がいなければむしろ、清々と出世できるどころか、なんにも頑張れなくなるんじゃないだろうか。 俺がもしも、火宮をなくしたら、そうなるであろうように。 『翼…?』 『2人で歩くと。2人で生きていくと、誓ったんです』 キラリと光を弾く左手のリングは、その証だ。 『っ…』 『俺は、俺たちの関係を、互いに苦しめ合う関係になんかしたくない。そして互いに馴れ合い、凭れ掛かり合う関係にも』 『翼』 『俺は、その人の足を引っ張るんじゃない。その人と共に、今よりもっと高みに、今よりずっと高いところへ。互いに寄り添い、互いに高め合う、そんな関係でいたいから』 スッと吸い込んだ息を、胸いっぱいに溜めて止めて。 凛と胸を張り、顔を上げて。 俺は真っ直ぐ前を見た。 『俺は行かない。アキさんとは。そして行きます、2人の未来へ』 スクッと立ち上がって、覚悟が決まった。 「行くんです、俺は。今より、1段上へ。火宮さんと一緒に、この足で、その階段を上ってみせる」 ニッ、と笑った俺の顔を、アキが目を眇めて見上げて来ていた。

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