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第566話
『great!』
ピュゥッと口笛が聞こえてきそうな、アキの華々しい英語だった。
ガブッとクレープの最後の一口にかぶりついたアキが、もぐもぐと口を動かしながら、ふわりと微笑んだ。
[さすが、か。火宮の、子猫]
『アキさん…?』
ふと、ポツリとアキが呟いた言葉は何か中国語の響きで、俺にはその意味は分からなかった。
『あぁいえ、振られてしまったな、と』
俺が取らなかった手をキュッと握って、アキがにこりと微笑んだ。
『そ、れは、すみません。でもご心配いただいて、ありがとうございます』
『いいえ。ふふ、左手薬指のリング』
『えっ?』
『そういうこと、ですね?』
チラリとリングに視線を向けられて、カァッと頬が熱くなった。
けれども同時に、その頬はだらしなく緩む。
『はい。俺の、誰より何より大切にしたいものです』
軽く握った拳を持ち上げ、顔の前に運んだその左手薬指に、チュッと唇を触れさせる。
ーー共に、人生を
誓いで、宣言で、希望で、繋がり。
俺と火宮の、形は。
『アキさん、俺、行きますね』
『翼?』
『言わなきゃならないことと、しなくちゃならないことができました』
『そうですか』
『クレープ美味しかったです。少し駄目にしてしまいましたけど』
あはは、と笑った俺に、アキは気にするなと柔らかく首を振った。
『では、さようなら。会えて楽しかったです。ありがとうございました』
ペコリと頭を下げた俺に、アキがすっと立ち上がる。
『翼っ』
『はい?』
『あのっ、携帯電話の、番号などは』
名残惜しそうに引き止められ、その視線を受け止めながら、俺はゆるりと頬を持ち上げた。
『ごめんなさい。教えられないんです』
失礼にならないように、けれどもきっぱりと首を振る。
『ごめんなさい』
『そう、ですか…』
『観光、楽しんでください。それからお仕事も。日本はよかったと、思ってもらえたら嬉しいです。では、さようなら』
ふわりと頭を下げ、俺はもう振り返らずに踵を返す。
サッと池田がすぐ側に控え、無言のまま俺についてきてくれるのが分かった。
[ふふ、火宮刃の至宝。さすがに、一筋縄ではいかないようだ]
ふと、背後でふわりと空気が揺らぐ気配がした。
「翼さん」
サッと振り返った池田が、ピクンと空気を震わせて、ピリッと空気を張り詰めさせたのが分かった。
「池田さん?」
「あぁ、いえ…」
ふらりと隣の池田を見上げ、思わずその視線を追った俺は、すでに俺たちの後ろ、アキがさっきまでいた場所に、誰もいないことに気がついた。
「あれ…?帰るの早いなぁ」
まだ別れてほんの数歩も進んでいないのに。
「そう、ですね…」
なんとなく歯切れの悪い池田は、何故か1本の太い木の方をジッと見つめている。
「池田さん?」
「あ、いえ。ところで翼さん、これから、どちらへ」
お車はお呼びしますか?と首を傾げた池田は、別にいつもの池田と変わりなくて。
ふいと木から逸れた視線は、ふわりと優しく俺に向けられた。
「あ、その、火宮さんのところへ行きたいな、と思うんですけど…仕事中ですよね」
朝見送ったばかりで、今というのは、さすがにナシだろうか。
「そうですね…俺も少し、会長に用が出来ましたから、事務所へ行ってみますか」
「いいんですか?」
「はい。ではすぐにお車を手配します」
相変わらず馬鹿丁寧に頭を下げた池田が、ポケットからスマホを取り出す。
どこで待機していたのか、ほどなくして、迎えの車がスマートに歩道に横付けされた。
[しかしあれは…。とても気に入ってしまったな]
ゆらりと揺れる、木陰の気配が2つ。
スゥーッとスマートに走り出した車の中から、池田がやっぱり助手席で、いつまでも広場の木の方を見つめていたのは、少し気になった。
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