568 / 719
第568話
「ふ、ぁ…」
ピリピリとした空気を纏ったままの火宮たちと共に、会長室に連れて来られた俺は、ストンとソファに腰を下ろしたところで、ようやくまともに息が吸えた。
「真鍋」
「はい」
火宮が呼びかけたのとほぼ同時に、コトン、と、湯気の立つココアの入ったマグカップが目の前のテーブルに置かれる。
「ふっ、翼。とりあえず飲め」
「っ、はい、ありがとうございます」
すごい…。
このタイミング。真鍋は火宮が呼びかける前から、何が必要で、何をどう用意すればいいか分かっていたみたいだ。
俺が今、さっきの路上での出来事に動揺していることも、火宮が何を要求するかということも完璧に把握していて…。
「もう、本当、どこまで出来るんですか」
しかも、そっと手に取ったマグカップのココアは、これまたちょうど飲み頃の温度だ。
「んっ…」
あぁ、落ち着く。
さっきの出来事で、ザワザワとしていた心が、ふわりと休まっていくような。ジーンと温かいココアが沁みる。
「美味し」
思わずふにゃりと笑顔を溢してしまったら、火宮の纏っていた空気が、スゥと静かに和らいだ。
「大丈夫か?翼」
「あ、はい」
やっぱり心配してくれてたんだ。
あんな、明らかにあの場の誰かを狙った車の走らせ方。どう考えても、跳ねるか轢き殺すか、そんな意図が見て取れた車の動き。
「誰が、なんのために…」
恐怖に凍えた心が解れたら、次に浮かんできたのは、その目的と犯人への疑問だった。
「ふっ、真鍋」
「はい。すぐに割り出しを開始しますが…おそらくは盗難車、実行犯は金で雇われた半グレだろうとは思います」
「だろうな」
池田、ナンバーだ、と、小さなメモを手渡した真鍋に、池田がそれを恭しく受け取って、別室へと消えていく。
「どうせ、理事選の敵対者の誰か…と言っても、まぁ相手は分かってはいるが…そいつが適当な半グレを雇ってやらせたんだろう」
「そうですね」
「目的は、軽く脅して、大人しく身を引け、立候補を取り下げろ、というあたりか」
ククッと喉を鳴らす火宮は、どこか余裕綽々に見えて。
「脅し?」
あれが?
明らかに、危害を加えようとしてきたように見えたけど。
「あぁ。黒幕に、殺すな、怪我もさせるなと頼まれていたんだろう。殺意は皆無だったぞ」
「そっ…」
そうなんだ…。
俺はてっきり、事故に見せかけて怪我をさせるとか殺すとか、そういう意図があるのかと思った。
「ククッ、さすがに初っ端から、そんな大胆な攻撃は仕掛けてこないさ。今回怯まず、こちらが思い通りにならなければ、この先は分からないがな」
「そんな…」
「だが、こちらもだからと引くわけにもいかない」
あぁ参ったな、と笑う火宮は、まったく困っている様子ではない。
「火宮さん?」
「ククッ、まぁとりあえずは、実行犯を捕らえろ。さて、そこから黒幕まで辿り着けるかどうか」
「繋がる証拠等は残していないでしょうね」
シラッと言い放つ真鍋は、相変わらず感情を窺わせない、いつもの無表情で。
「ククッ、そうだな。内部抗争など、オヤジが最も嫌うことだ。敵方も、自分たちが仕掛けた、などということは、絶対に表には出ないようにしているだろう」
「どうしますか」
「とりあえず、放っておけ。実行犯だけ、捕らえたらいつもの場所だ」
「かしこまりました」
スッと頭を下げる真鍋に、俺はただただ戸惑った。
「あ、の、火宮さん?」
「あぁ翼、おまえは何も心配するな」
「だけど…」
「大丈夫だ。何があっても、俺はおまえを守る」
ポン、と頭を撫でてくる火宮は、やっぱり俺のことが最優先で…。
「っ…」
「まったく、だから、上での役職など…」
面倒なだけだ、と溜息をつく火宮の、その言葉は。
「それなんですけど…」
ぐっと腹に力を入れ、俺が、俺の思いを伝えようとした、そのとき。
「失礼します、会長」
ガチャッと会長室のドアを開けて、池田が室内に戻ってきた。
ともだちにシェアしよう!