579 / 719

第579話

「っ、火宮さん?」 きゅっと握られた左手に、疑問を込めて火宮を見上げたところに、ふと微かなノックの音が割って入った。 「失礼します、会長」 ガチャッとドアを開けて、遠慮なく入ってきたのは、言わずと知れた真鍋で。 「よろしいでしょうか?」 チラリ、と俺に向けられる視線が、使用済みのお湯とタオルに向かい、さらに火宮の柄を変えたネクタイへと移った後、再び俺に戻って来た。 「っ…」 まるで、先ほどまでの情事を余すところなく見透かすようなその視線に、俺は居たたまれなさのあまり俯いてしまう。 「ククッ、そう苛めてくれるな。俺も共犯だ」 「むしろ会長が主犯でしょう?」 まったく、ここをどこだと…とブツブツぼやいている真鍋は、さっき俺を見捨ててこの部屋を出て行ったような気がするけれど。 「こうなる結果がたやすく予想できていたお前も共犯だろう」 ククッと愉しげに喉を鳴らす火宮に、真鍋が黙ったまま、なんとも鮮やかな笑顔を浮かべた。 「ふっ、まったくおまえもたいがい…。それで?用件は」 スッと俺の手を離し、火宮が真鍋に向き直る。 「はい、先ほどの件ですが…」 スッと無表情になった真鍋もまた、真っ直ぐに火宮を見返した。 「もう調べがついたのか?」 多少驚いたように目を瞠った火宮に、真鍋の首が軽く横に振られる。 「いえ、翼さんに接触なさった中国人の方は、断言できるほどの情報はまだ」 「そうか。だが、すでにあたりはついているんだろう?」 おまえのことだ、と笑う火宮に、真鍋が無表情のまま頷いた。 「はい、一番可能性が高い人物が上がったところですが」 「それでいい、聞かせろ」 くいっと顎をしゃくった火宮が、真鍋を執務机の方に導く。 それに無言で従った真鍋が遠ざかっていくのを、俺はソファに座ったまま見送った。 「それで?」 「はい、名前は、連明貴(レン ミングゥェイ)。中国黒幇(ヘイパン)六合会(りくごうかい)の首領である男です」 「六合の首領…。なるほど、アキ、な」 クッ、と面白そうに喉を鳴らした火宮の言葉が聞こえ、俺はヒュッと自分の喉が鳴るのを感じた。 「はい。ただ、池田と浜崎の証言による容姿が、どうも…」 「黒幇の中でも、最大の組織である六合会、その首領の男は、黒髪のオッドアイ」 「えぇ、噂では、そう囁かれていますが…」 「黒髪黒目だった?」 ふっ、と小さく鼻息を吐いた火宮が、チラリと俺に視線を向けてきた。 「っ?」 「翼も見ているな?ミングゥェイ…アキの瞳の色は?」 「え?あ、はい、黒、でした」 それこそ、なんの特徴もない、口を開かなければ日本人かと思うほどの、ごく普通の綺麗な男だった。 「ならばカラーコンタクトで隠していたか…」 「もしくは噂が間違っているのか」 「レンではないか」 ポンポンと交わされる火宮と真鍋の会話だけれど、2人はその答えをすでに分かって話しているような感じがした。 「ですから、可能性が1番高い、と」 「なるほどな。まぁ黒幇の頂点に立つ男の容姿など、当然のように公表などされていないし、写真はおろか、直に会ったという人間の話すら聞いたことがない」 「そうですね。必ず影武者か代理の者、もしも直接会った人間がいたとしても、レンの容姿を知ったというだけで、きっとことごとく消される」 シラッと交わされる2人の話は、内容が相変わらずとんでもない。 「ならば可能性がもう1つあるんじゃないか?」 「レンの側近と名高い、劉永華(リュウ ヨンフゥァ)ですか?黒髪黒目、中国語と英語を流暢に操るという」 「あぁ。七重(うち)との窓口になっているのも、その男だろう?」 コツン、と火宮が指先で執務机を叩いた音が、なんだか俺には苛立ちに聞こえて、ハッと顔をそちらに向けた。 「っ…?」 けれども火宮の表情は、どこまでも余裕そうに、唇の端を吊り上げた楽し気なもので。 それならば真鍋は、と思って見ても、こちらは相変わらずの無表情で感情が一切読めない。 「そうです。ですので、七重(うえ)と連絡を取らせていただきたいのが、1つ」 「そうだな。池田が接触しているんだ。リュウ本人かどうかは容易に結論付くだろう」 「はい。そして、もしもアキがリュウではなく、さらにレン・ミングゥェイだった場合…」 ピリ、と張り詰めた2人の空気が、会長室内を一瞬にして緊張状態にした。 「翼に接触してきた、目的は」 「……」 火宮の固い声に、真鍋がグッと押し黙った。

ともだちにシェアしよう!