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第580話

「はっ、やはり、理事選は避けられないのか?」 クックックッ、と、不意に緩んだ火宮の空気に、会長室内の緊迫感も一気に霧散した。 「会長?」 不審そうに、真鍋の眉がギュッと寄る。 「いや、まぁ、な?」 ニヤリ、と笑った火宮が、意味ありげに俺の方を見た。 「それでもやはり、俺には…、っ、真鍋」 「はい」 「とりあえず、そのアキとやらの正体の確証と、目的を引き続き調査しろ」 「かしこまりました」 「それで?報告はそれだけではないな?」 「はい」 スッとまたも表情を引き締めてしまった火宮が飲み込んでしまった言葉の先は、俺には予想もつかなかった。 「もう1件、先ほどの車での襲撃紛いですが」 「あぁ」 「やはり、裏で、今度の理事選の対立候補である沖嶋組長が、1枚噛んでいるようです」 「証拠は」 「上がりません、が、実行犯の半グレの話からすると、依頼を持ってきたのは、沖嶋組の末端だろうと」 冷たく目を細める真鍋に、火宮が退屈そうに頷いた。 「その依頼者は?」 「消されています」 「だろうな。一応は理事候補に名が上がるような男だ。一筋縄ではいかないだろうさ」 「はい」 「引き続き警戒だけは怠るな。確実な証拠が手に入らない限り、こちらから何かを仕掛けることも、応戦することもするな」 「かしこまりました」 スッと静かに頭を下げる真鍋に、火宮がスゥッと薄く目を眇めた。 「とりあえず、今日はホテルに泊まりだな。もちろん翼も」 「そうですね」 え? 「いや、火宮さん?」 「なんだ」 「いえ、ホテルって…」 もしかしてそれは、あの、無駄にセキュリティのすごいマンションですら、安全じゃないって話? それってどれだけ…。 「万が一の用心だ」 「でも…」 「アキ」 「っ…」 「レン・ミングゥェイ。もしも本当にアキとやらが、黒幇のボスだった場合、俺の…蒼羽会会長のヤサを知ることくらい容易くて、更にそのセキュリティ万全の室内から翼を連れ出すくらいやってのける」 「っ…」 ゴクリ、と喉が鳴った音は、俺のもとから上がっていた。 「黒幇のボス…つまりは、中国マフィアのトップだ。六合会という、七重(うち)とも取り引きがある1組織だが、とても対等に渡り合える相手ではない」 「そ、れは…」 「力も立場も人員も何もかも、向こうがずっと上だ。警戒する相手が、沖嶋組程度のやつらならばそこまでする必要はないが、もしもレンだったならな…」 あの自宅すら安全じゃない、と…。 「っ、火宮さん」 不安に揺れた心が、そのまま声に出てしまったのだろう。 火宮の目が、ふわりと困ったように細められた。 「心配ない。まだ、レンと決まったわけでもなければ、目的も意図も不明なんだ。明確な悪意や敵意があるわけでもないし、おまえは気分転換にホテル宿泊だとでも思っておけ」 「でも…」 「ククッ、なんならおまえが楽しめるような趣向を凝らしたホテルの部屋でもリザーブするか?」 ニヤリ、と頬を持ち上げる火宮は、数秒前の真面目な顔がどこへやら。 「っ、な、なんですか、それ…」 「ふっ、おまえが楽しめる趣向といえば…」 「っーー!ふ、普通でいいですからねっ?普通の、セキュリティだけはしっかりしたホテルでっ」 もうそのニヤニヤ顔。どうせロクなこと考えてない、この人…。 「ククッ、だ、そうだ、真鍋。手配しておけ」 「かしこまりました」 スッと頭を下げる真鍋を、思わず胡乱に見つめてしまう。 「言うまでもないだろうが…」 「はい。フェイクに数件、予約をお取りしておきます。宿泊直前まで、どちらのホテルにお向かいになるかはお決めにならないということでよろしいですね?」 「クッ、さすがは有能な右腕。話が早い」 ニヤリ、と笑う火宮が得意げなのは、真鍋に対する信頼と自信の表れか。 「本当、格好いい…」 どちらも。 思わずぽつりと呟いてしまった俺に、火宮が面白そうに目を細め、真鍋が微妙に嫌そうに眉を歪めた。 「ククッ、それから、翼の護衛だが」 「はい」 「できる限り、おまえが警護に付け」 「かしこまりました」 スッと頭を下げた真鍋は、いつもの無表情に戻ってしまい、さっきの微妙な表情は跡形もなく消えた。 「っ、あの、でも…」 「ふっ、俺の安心のためだ。おまえは何も気にすることはない。さてと、俺はそろそろ仕事の続きをしないとな」 チラリ、と真鍋を見る火宮の目は、「そこの小舅がうるさいからな」と語っている。 「翼はどうする?外出するならそいつを連れて行けばいいし、ここで待つ…といっても退屈だろうからな」 「でしたら、幹部室をお使いになられても構いませんよ。ゲームや雑誌、DVDや菓子などを用意させます」 にこり、と微笑む真鍋の顔は完全な作り物で、一体何を企んでの提案なのやら。 その内心が読めない言動に、答えたのは俺ではなく火宮だった。 「そうだな。翼がよければ、そうしろ」 「う、あ、はい。じゃぁ…」 まぁ別に、外に出たところで行きたい場所もないし、どうやら自宅には帰れないらしいし。 特に異論もない俺は、真鍋に従って、会長室を後にした。

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