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第581話

それから、結局俺たちのホテル暮らしは1日だけのことではなく、数日間、あちこちのホテルを転々とすることになった。 火宮の命令通り、真鍋はほとんど俺と行動を共にしてくれるし、ホテルも毎日違うホテル、しかもチェックイン直前までどのホテルを利用するかもわからないような状態の日々が続いた。 そのおかげかなんなのか、特に俺たちの周囲に変わった様子はなく、あれからアキからの接触もなかった。 そんなある日。 ふと、ホテルの部屋のリビングのソファの上でのんびりとゴロゴロくつろいでいた俺は、向かいで何やら仕事をしていた真鍋が、珍しい小さな唸り声を上げたのに気がついた。 「真鍋さん?」 その感情に揺れた声が珍しくて、思わず顔を上げる。 「どうかしましたか?」 「っ、いえ」 ハッとしたように、一瞬表情を揺らした真鍋だが、すぐにいつもの無表情に戻ってしまった。 「……」 じっと真鍋が見下ろしているのは、何かの報告書か。 数枚の書類を睨む目は、表情のない顔の中で唯一、鋭く射るような感情を揺らしている。 「はぁっ…」 そんな真鍋をじーっと見つめてしまった俺に、真鍋が参ったような、諦めたような溜息を落とした。 「あなたに事を悟られてしまうとは」 私も鈍ったか、と呟く真鍋が、ぱさりと書類をテーブルの上に放り出す。 グッ、と眉間を揉むように押さえた真鍋からは、隠しきれない疲労が伝わった。 「お疲れ、ですよね…」 ここ数日、ずっと一緒に行動してきたから分かる。 この人は、俺の護衛のみならず、常に周囲に緊張感を走らせ、気を緩めた時間を少しも持たなかった。 その上通常通りの仕事もこなし、部下たちへの采配も振るい、本当、いつ寝ているんだって言うくらいにずっと働き続けてきていたんだ。 「少しお休みになられたら…」 どうですか?という俺の言葉を最後まで言わせず、真鍋は小さく首を左右に振り、クイッとテーブルの上の書類に顎をしゃくって見せた。 「え…?」 「残念ながら、そうも言っていられない状況になりました」 「え…」 それは一体どういう…。 疑問はそのまま顔に出てしまったんだろう。 小さく口角を上げた真鍋の口から、またも微かな溜息が漏れて、皮肉気な表情がその顔に浮かんだ。 「翼さんにこのような話をお聞かせしましたら、会長に叱責されてしまいそうですが」 「でも…」 「えぇ、悟られてしまった時点で、私のミスですね。どうせ聞くまでお諦めにならないでしょう?」 あなたのことですからね、と諦めを滲ませる真鍋とも、俺はもうだいぶ付き合いが長くなった。 よくわかっていらっしゃる。 コクンと頷いてしまった俺に、真鍋は心からの苦笑を浮かべて、ゆっくりと口を開いた。 「宣戦布告から数日、いよいよ本格的な攻撃が始まりました」 「え…それって」 「どうぞ?そちらの書類、お読みになられて構いません」 視線で示されたテーブルの上の書類に、俺はならばと手を伸ばした。 「っ…」 大半の意味はやっぱりわからない。 だけどそこに書き並べられていたのは、人名と思わしき固有名詞と、軽犯罪の名称? 「ふっ、そこに書かれた名は蒼羽会(うち)の若い衆の名前です」 「って、構成員さん?」 「えぇ。下の者ばかりですが、うちの者たちですね」 「え?じゃぁその、この横に書かれているのは…」 駐車違反、傷害、不法侵入、凶器携帯…。 「このところ、何故かうちの者たちが、そういった名称をつけられて、ことごとく逮捕されているのです」 「え…?」 「確かに違法と言われればそれまでで、悪いのはうちの者たちでしょう。ですが」 ギロッと鋭く色を変えた真鍋の目には、隠しきれない怒りが滲んでいる。 「吹っ掛けられた喧嘩で応戦の末かすり傷を負わせただとか、たまたまうっかり1歩ふらついて踏み入れてしまった敷地が他人の所有地だったとか」 「え…」 「梱包を解く作業の後、うっかり身に着けたままだったナイフを持ち歩いていたのが見つかっただとか」 「でもそれって」 「えぇ、正当な理由がある、と、一般人ならば受け取られる可能性もあるものが、ヤクザ者、と分かるだけで扱いは変わります」 ギリッ、と苛立ちを滲ませる真鍋が、本当に珍しい。 「さらにお教えいたしましょうか?」 「あの…」 「電車内でぶつかられて、思わず「痛てぇなぁ」と怒鳴ってしまったものを、著しく粗野な言動とされ、乱暴の罪。バスに乗る際に譲られたと思って先に乗り込んだ行為が、威勢を示して割り込んだという、行列割り込み等の罪と…」 「そ、そんなことまで…?」 スゥッと冷たく微笑を浮かべた真鍋の、その内心は、簡単に理解できた。 「軽犯罪法違反…というにはあまりにも」 「誰かの意図や悪意を感じる…」 「えぇ。策略…つまりは、嵌められている、と」 冷たい雰囲気のまま、ゆっくりと持ち上がっていく真鍋の口元が、ゾッとするほどの冷笑を貼り付かせる。 「私に刃向かってきたこと…」 ヒヤリ、と物理的温度さえ低下したかと錯覚するような、冷たい凍えるような真鍋の声色だった。 「後悔で済めば御の字と思うがいい」 スッと取り出されたスマホが、すらりと長く美しい真鍋の指先で操られていく。 「終わりだ」 にこりと鮮やかな笑みを浮かべた真鍋の顔は、けれども鋭く圧倒されるような冷気に満ちていた。

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