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第583話
ぼーっと真鍋の口元を見つめる俺の視線の先で、真鍋がテキパキと池田に指示を飛ばしている。
淡々と聞こえてくるその声は、「再度指導を徹底しろ」だとか、「沖嶋組に潜らせる準備を」だとか。
俺にはいまいちよくわからない会話の1部で、けれどもずっと真鍋の口元に浮かんでいる冷たい笑みだけは、それが誰かの運命を握っていると語っているような気がした。
「私もすぐに行く。あぁ、待っていろ」
ピリッとした冷ややかな声の後に、ふつりと通話を終わらせ、スマホを下ろした真鍋が振り返る。
「翼さん」
「はいっ?」
「申し訳ありませんが、事務所へ向かわなくてはならなくなりました」
「はい」
うん。なんか、そんな感じの話の流れだったよね。
「池田にも少々動いてもらわなくてはならないことがあるので、護衛は…」
代わりに誰をつけるか、と思案し始めた真鍋に、俺はそっと首を傾げた。
「あの、もしお邪魔じゃなければ、俺もついて行ったら駄目ですか?」
「翼さんも?事務所へ?」
退屈ですよ?と困惑する真鍋に、俺はフルフルと首を振った。
「でも別に今は行きたいところもしたいこともないですし…。ホテルに籠っているのと別に変らないっていうか」
篭り先が幹部室か会長室になるだけで。
「そ、うですか…。そうしていただけると、私も助かりますが」
「はい」
新しい護衛の手配とか、気を配る場所が一か所減るもんね。
「では、一緒に事務所へ参りましょう。ご準備は?」
「んー?特にないです。すぐに出れます」
数日のホテル暮らし、多少の衣服は増えたものの、特に私物の類や荷物はない。
スマホと財布をポケットに突っ込んで、暇つぶし用の雑誌やゲームを持てば準備完了だ。
「それでは、すでに車は待機させていますので」
いつの間に…。
行きますよ、と俺を促し、周囲を警戒しながら先を行く真鍋を追って、俺はホテルの部屋を後にした。
そうして何事もなく無事にたどり着いた蒼羽会事務所。幹部室でミーティングをするという真鍋にくっついて、俺は部屋の隅の一角を貸してもらっていた。
「では翼さんはこちらでお好きにお過ごしください。このパソコンは好きに使っていただいて構いませんので」
クルクル回る事務椅子を1つ借りて、デスクトップパソコンが設置された1つのデスク前に陣取る。
幹部室内には他に、池田と浜崎と、名前を忘れてしまった2人の部下さんたちがいた。
「これ以上うちから逮捕者を出すな」とか、「内外から同時に探る」とか。
「沖嶋組の内部 に潜り込む役は任せた」とか。なにやら作戦会議らしい話が漏れ聞こえてくる。
あぁ、潰す気だ…。
真鍋たちから漂う空気に、俺は漠然とそう感じた。
「では、おまえたちは行け」
「「「はい」」」
池田だけをその場に残し、真鍋に命じられた浜崎他2名の部下さんが、深々と腰を折り、幹部室を出て行く。
後に残った池田と真鍋の間に、ピリッとした鋭い空気が横たわった。
「それで?」
「はい。うちから出た逮捕者の方ですが、穏便にことを運び、大事には至らせていません」
「いいだろう」
「警察の方も、立て続けにうちのものが逮捕されはしていますが、どれも軽微な罪状、それ以上の何を探ることもできず、特に深追いはないかと」
「分かった」
淡々と交わされる幹部たちの会話を、聞くともなしに聞いてしまう。
「念のため、一応夏原先生には連絡を取っておこう」
「では俺がお伝えしておきます」
「頼んだ」
サラッと返す真鍋の内心はどんなものか。
先回りして真鍋が苦手とする弁護士先生に連絡する役を買って出る池田もこれでいて有能な人なのか。
俺がいると知っていて、声のトーンを落としもせずに会話を続ける幹部2人に、俺も聞いていいものだと、遠慮なく耳を傾ける。
「それからこれはまだ噂話の段階ですが…」
「なんだ」
「その、沖嶋組に与する組織が、西から上がってきていると」
「……」
池田がもたらした情報に、真鍋の眉が一瞬ひそめられて、その後何かを思案するようにその目が薄く細められた。
「沖嶋にパイプがある組と言えば、あそこか」
「はい」
「えさは、関東進出の足掛かりと言ったところか?沖嶋を勝たせれば、晴れて七重組の理事と繋がれるわけか」
「えぇ」
「そのためにはうちが邪魔だな。進出にしても、理事選にしても」
「はい。警戒を」
「わかった。引き続き探れ。何かあればすぐに報告しろ」
「はい」
落ち着いた声で淡々と話す2人だけど、え?それって、また敵が増えるってこと?
思わず空気が揺らいでしまった。
「翼さん?」
目敏くその気配を察したのか、真鍋が不意にこちらを振り返る。
「っ、あ、いえ…」
えへ、と誤魔化し笑いを浮かべてみたけど、真鍋には俺が2人の話を聞いていたことはバレバレだった。
「あなたがご心配なさることはありません。ただ、有事である、ということは、くれぐれもお忘れなく」
暗に、今回ばかりは軽く考えるな、と聞こえる真鍋の言葉に、俺は俺がいる場でこんな会話を堂々としている真鍋の意図を悟った。
「わ、かって、います」
理事選の重さは、はっきりとは理解できない。けれど、舐めてはいけないということだけは、痛いほどに理解している。
甘い考えは命取り。俺がどんな些細なことも簡単に「大丈夫だろう」と考えないように。
緊張感と危機感を持てと教えられる空気に、俺は改めて現状を理解し、ごくりと喉を鳴らした。
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