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第584話

「それから、もう1つ」 ピリッとした緊張感を、さらに研ぎ澄ませたような池田の声が重ねられた。 「あれか」 「はい。入国記録に、劉の名を見つけました」 「……」 ぴく、と頬を震わせて、黙り込んだ真鍋の頭の中が、フル回転を始める様子が分かるような気がする。 「七重(うえ)との取り引きの話は確認できていないな?」 「はい」 「では今回の来日の目的は…」 「理事選…」 「だろうな。うちとの取り引き窓口になっていたのが、今回引退を決めた組長だ。後任の人物が気になる、という建前で…」 そこまで呟いて、真鍋の言葉が不意に途切れた。 「真鍋幹部?」 「レンは?」 ふと、続きにしては全く繋がりのない問いを放った真鍋に、池田の顔が引き締まった。 「入国の確認はできませんでした。が、1名、劉の側近として入国した男に、偽名の者が」 「レンだな」 「確証はありませんが、恐らくは」 重々しく告げる池田に、真鍋がゆっくりと顎を引いて、再び黙り込んだ。 小さな沈黙が、幹部室内を支配する。 けれどもそれは、すぐに真鍋の吐息で破られた。 「組対の動きは変わりないな?」 「はい」 「公安は」 「動いているようです」 「わかった。そのままそちらも監視を続けろ。探りは…私も動く」 ぐるぐると、真鍋の脳内がフル回転で考えを巡らせているのが分かる。 見た目は無表情のままだけど、時々訪れる沈黙が、真鍋の思考を語っていた。 「真鍋幹部」 「なんだ」 「ご負担が、あまりにも……いえ」 「ふっ、誰に言っている」 「申し訳ありません。ですが」 「心配ない。おまえは、おまえのやるべきことをやれ」 「はっ」 ピシリ、と冷たく気使いを跳ねのけられれば、池田にはそれに従い口を噤むことしかできないのだろう。 凛然と命令する真鍋の声に、池田は綺麗なお辞儀をして、くるりと踵を返す。 「失礼いたします」 自分の部屋でもあるはずの、幹部室なのに。 丁寧に頭を下げた池田が、静かに部屋を出て行った。 「は、あ…」 知らずのうちに息を詰めてしまっていたのか。 ふと、張り詰めていた空気を緩ませて、自分のデスクなのだろう、タブレットが置かれた机の方に歩き出した真鍋を見て、俺は気の抜けた吐息を漏らしてしまっていた。 「お騒がせいたしまして、失礼しました」 ふ、と、小さく口元を歪めた真鍋が、本気では思ってないのだろう口調で淡々と告げてきた。 「あ、いえ、お邪魔しているのは俺の方なので」 分かっていて、俺もさらりと切り返す。 「もう難しい話はありませんので、どうぞお好きにお寛ぎください」 私は仕事にかかる、とタブレットを取り上げた真鍋に、俺はくるーりと座っている事務椅子を回転させた。 「……」 スーッと小さな回転音が、俺の椅子から上がる。 「……」 カタカタと、タブレットの傍ら、パソコンをも弄り始めた真鍋の意識が、俺の気配を探るように向けられているのを感じた。 「真鍋さん」 そのことに気づいた俺は、遠慮を止めて真鍋を呼ぶ。 小さく眉をひそめた真鍋が、それでも「なんですか?」と器用に片眉を持ち上げて、視線で問いかけてきた。 「アキさん…」 ぽつり、と落ちた声は、思ったよりも小さく掠れてしまっていた。 「はい?」 ぴく、と普通では分からないほどに頬を震わせた真鍋の目が、はっきりとこちらに向く。 それなりにこの人と時間を過ごしてきた。わずかな表情の違いが、少しは俺にも分かるようになった。 「アキさん…。敵、なんですか?」 アキは本名ではなく、ほぼ明貴で確定だろうと、真鍋たちは話していた。 中国の、黒幇、つまりはマフィアの、ボス…。 それでも、あの、人懐こく笑っていたアキが、偽物だとは思えなかった。 「決して味方ではない、としか、お答えできませんが」 「携帯」 「え?」 「携帯番号。教えてくれって言われたんですよ。でも、教えなかったんです」 はは、と笑った声は、自分でも分かるほど、自嘲的な色が滲んでしまっていた。 「友人と錯覚したんです。本音では多分、友人でありたいと、俺は思ってました」 ぽつり、ぽつりと紡ぐ言葉を、真鍋はただ黙って聞いてくれた。 「なのに俺はね、聞かれた携帯番号を教えることを、反射的に拒んでいたんです。迷わず、火宮さんを選んでた」 火宮の言いつけを。そして火宮と歩く道を、共にいる未来を。 「翼さん…」 「俺は線を引きました。アキさんと、俺の間に、紛れもなく一線を」 「翼さん」 「俺は、正しい?ねぇ真鍋さん。俺は正しいですか?」 不安に揺れた声は意志の下に抑え込む。 じわりと滲んだ涙は、ぐ、と飲み込んだ。 ーー俺は、蒼羽会会長、火宮刃の本命。 だから切り捨てていく人がいる。切り捨てていく感情がある。 それが、時に本音に反しても。 スッと真っ直ぐに顔を上げ、真鍋を見つめた俺を見て、真鍋の目が、この上ないほど柔らかく、ふ、と細められた。 「私の主と、立ち並ばれるお方だ」 静かに腰を折った真鍋が、恭しくこうべを垂れる。 俺を、2番目の主と認めて。 俺のしたことは間違いじゃないと。俺のしていることは正しいのだと。 それが蒼羽会会長、火宮刃のパートナーである者の姿だと。 「っ…」 じわり、と広がったこの感情は、なんと呼べばいいんだろうか。 込み上げる熱い塊は、そのまま涙となって頬を伝い落ちる。 静かに泣き出した俺を置いて、真鍋はそっと立ち上がり、俺から視線を外してそのまま再び仕事に戻っていった。

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