584 / 719
第584話
「それから、もう1つ」
ピリッとした緊張感を、さらに研ぎ澄ませたような池田の声が重ねられた。
「あれか」
「はい。入国記録に、劉の名を見つけました」
「……」
ぴく、と頬を震わせて、黙り込んだ真鍋の頭の中が、フル回転を始める様子が分かるような気がする。
「七重 との取り引きの話は確認できていないな?」
「はい」
「では今回の来日の目的は…」
「理事選…」
「だろうな。うちとの取り引き窓口になっていたのが、今回引退を決めた組長だ。後任の人物が気になる、という建前で…」
そこまで呟いて、真鍋の言葉が不意に途切れた。
「真鍋幹部?」
「レンは?」
ふと、続きにしては全く繋がりのない問いを放った真鍋に、池田の顔が引き締まった。
「入国の確認はできませんでした。が、1名、劉の側近として入国した男に、偽名の者が」
「レンだな」
「確証はありませんが、恐らくは」
重々しく告げる池田に、真鍋がゆっくりと顎を引いて、再び黙り込んだ。
小さな沈黙が、幹部室内を支配する。
けれどもそれは、すぐに真鍋の吐息で破られた。
「組対の動きは変わりないな?」
「はい」
「公安は」
「動いているようです」
「わかった。そのままそちらも監視を続けろ。探りは…私も動く」
ぐるぐると、真鍋の脳内がフル回転で考えを巡らせているのが分かる。
見た目は無表情のままだけど、時々訪れる沈黙が、真鍋の思考を語っていた。
「真鍋幹部」
「なんだ」
「ご負担が、あまりにも……いえ」
「ふっ、誰に言っている」
「申し訳ありません。ですが」
「心配ない。おまえは、おまえのやるべきことをやれ」
「はっ」
ピシリ、と冷たく気使いを跳ねのけられれば、池田にはそれに従い口を噤むことしかできないのだろう。
凛然と命令する真鍋の声に、池田は綺麗なお辞儀をして、くるりと踵を返す。
「失礼いたします」
自分の部屋でもあるはずの、幹部室なのに。
丁寧に頭を下げた池田が、静かに部屋を出て行った。
「は、あ…」
知らずのうちに息を詰めてしまっていたのか。
ふと、張り詰めていた空気を緩ませて、自分のデスクなのだろう、タブレットが置かれた机の方に歩き出した真鍋を見て、俺は気の抜けた吐息を漏らしてしまっていた。
「お騒がせいたしまして、失礼しました」
ふ、と、小さく口元を歪めた真鍋が、本気では思ってないのだろう口調で淡々と告げてきた。
「あ、いえ、お邪魔しているのは俺の方なので」
分かっていて、俺もさらりと切り返す。
「もう難しい話はありませんので、どうぞお好きにお寛ぎください」
私は仕事にかかる、とタブレットを取り上げた真鍋に、俺はくるーりと座っている事務椅子を回転させた。
「……」
スーッと小さな回転音が、俺の椅子から上がる。
「……」
カタカタと、タブレットの傍ら、パソコンをも弄り始めた真鍋の意識が、俺の気配を探るように向けられているのを感じた。
「真鍋さん」
そのことに気づいた俺は、遠慮を止めて真鍋を呼ぶ。
小さく眉をひそめた真鍋が、それでも「なんですか?」と器用に片眉を持ち上げて、視線で問いかけてきた。
「アキさん…」
ぽつり、と落ちた声は、思ったよりも小さく掠れてしまっていた。
「はい?」
ぴく、と普通では分からないほどに頬を震わせた真鍋の目が、はっきりとこちらに向く。
それなりにこの人と時間を過ごしてきた。わずかな表情の違いが、少しは俺にも分かるようになった。
「アキさん…。敵、なんですか?」
アキは本名ではなく、ほぼ明貴で確定だろうと、真鍋たちは話していた。
中国の、黒幇、つまりはマフィアの、ボス…。
それでも、あの、人懐こく笑っていたアキが、偽物だとは思えなかった。
「決して味方ではない、としか、お答えできませんが」
「携帯」
「え?」
「携帯番号。教えてくれって言われたんですよ。でも、教えなかったんです」
はは、と笑った声は、自分でも分かるほど、自嘲的な色が滲んでしまっていた。
「友人と錯覚したんです。本音では多分、友人でありたいと、俺は思ってました」
ぽつり、ぽつりと紡ぐ言葉を、真鍋はただ黙って聞いてくれた。
「なのに俺はね、聞かれた携帯番号を教えることを、反射的に拒んでいたんです。迷わず、火宮さんを選んでた」
火宮の言いつけを。そして火宮と歩く道を、共にいる未来を。
「翼さん…」
「俺は線を引きました。アキさんと、俺の間に、紛れもなく一線を」
「翼さん」
「俺は、正しい?ねぇ真鍋さん。俺は正しいですか?」
不安に揺れた声は意志の下に抑え込む。
じわりと滲んだ涙は、ぐ、と飲み込んだ。
ーー俺は、蒼羽会会長、火宮刃の本命。
だから切り捨てていく人がいる。切り捨てていく感情がある。
それが、時に本音に反しても。
スッと真っ直ぐに顔を上げ、真鍋を見つめた俺を見て、真鍋の目が、この上ないほど柔らかく、ふ、と細められた。
「私の主と、立ち並ばれるお方だ」
静かに腰を折った真鍋が、恭しくこうべを垂れる。
俺を、2番目の主と認めて。
俺のしたことは間違いじゃないと。俺のしていることは正しいのだと。
それが蒼羽会会長、火宮刃のパートナーである者の姿だと。
「っ…」
じわり、と広がったこの感情は、なんと呼べばいいんだろうか。
込み上げる熱い塊は、そのまま涙となって頬を伝い落ちる。
静かに泣き出した俺を置いて、真鍋はそっと立ち上がり、俺から視線を外してそのまま再び仕事に戻っていった。
ともだちにシェアしよう!