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第585話
カタカタと、静かな室内に、真鍋がキーボードを叩く音だけが響く。
時折スマホを手にしては、どこぞと連絡を取る声が聞こえ、俺は邪魔にならないよう、部屋の片隅で静かに時間を過ごしていた。
スーッとついつい回してしまう事務椅子の上に両膝を抱えて乗り、口にはチョコレートが掛かった細い棒状のお菓子を咥えている。
パラリと雑誌のページを捲る音が邪魔にならないようにと最新の注意を払いながら、チラリ、チラリと真鍋を窺った。
「……」
視線に気づいてはいるのだろう。
俺の存在を意識するように、緩く張り巡らされた真鍋の空気を感じる。
「ん…」
この人と無言で過ごす室内も、こんなに居心地のいいものなんだな、なんてぼんやりと考えたところで、ふと機械的な電子音がその空気を引き裂いた。
「んぁっ?」
ビクッと唇が震えて、パキッと咥えていたお菓子を折ってしまう。
手を添えることなく、挟んだ唇の力だけで支えていたお菓子が、折られた勢いでそのまま重力に従い、ポロリと幹部室の床に落ちていった。
「……」
じろりと咎めるような視線が真鍋から向けられる。
ハッと慌てて上半身を曲げ、床に手を伸ばしながら椅子から両足を下ろそうとしたら、一気に重心の変わった椅子がバランスを崩して傾いた。
やばっ!落ち…
「る」まで思考が回る前に、タンッと床を蹴る微かな足音を聞いた。
ぐらりと傾いだ身体を、どうにも修正できずに重力に従うままに任せる。
せめて受け身を…と思う身体をきゅっと小さく丸めたところに、スッとスライディングの勢いで真鍋が身体を滑り込ませてきたのが見えた。
「っあ…」
ピクリとも動かない無表情。
迷いなく俺の落下点に滑り込んだ真鍋の身体の上に、俺の身体はドサリと落ちていく。
「ぐ…」という反射的な小さな呻き声が聞こえたときにはもう、俺は無表情を貫く真鍋の腹の上に、しっかりと抱き止められていた。
「っーー!」
「はぁ、まったくあなたは…」
何をしているのです、と呆れた声を隠しもせずに溜息をつく真鍋が、片手を床について上半身を起き上がらせる。
もう片方の手は、俺が落ちないようにと腰の辺りを支えてくれていて、その手は油断なく俺の全身に怪我がないかを確かめていた。
「ご無事ですね」
「あ、うん、はい」
真鍋が庇ってくれたお陰で、俺は転落の衝撃も痛みも受けることなく済んだ。
だけど、俺の下敷きになって、代わりに苦痛を引き受けてくれた真鍋に申し訳なさが募る。
「あの、ごめんなさい」
自分のドジを自覚している俺は、しゅんと俯いて、俺の全体重を受け止めてくれた真鍋の腹を見つめた。
「その、お腹…」
俺の体重に加え、落下の衝撃も加わったのだ。
怪我をしたり、痣とかになったりしていなければいいなと、何げなくそのお腹を探ろうと手を伸ばした俺は…。
「真鍋?」
不意に、ガチャッと幹部室のドアをノックもなしに開けてきた人物が踏み込んできた声に、ビクッとその手を凍らせた。
「真鍋。翼」
これは一体どういうことだ、と呻くように紡がれた声に、ぎくりと身体が強張る。
「会長…」
はぁっ、とさらに疲れたような溜息を漏らした真鍋が、参ったな、といったように珍しく表情を歪ませて、俺を守る際に途中で放り捨てたのだろう、床に転がったスマホに目を向けた。
「っあ…」
見ればそのスマホは、火宮との通話状態で放り出されている。
先ほどの着信は火宮で、それに応えた瞬間、俺が椅子から落ちかけるという事件が起きたわけか。
「申し訳ありません、通話ボタンを押したまま…」
一言も発さず、と続けかけたのだろう真鍋の声は、火宮の一睨みで黙らされた。
「真鍋。翼」
ずし、とこの場の重力を全支配する火宮の、低く唸るような呼び声だった。
その目にゆらりと浮かぶのは、微かな苛立ちの炎だ。
「っ、ぁ…」
火宮さん?と呼びかけようとして、俺はふと、今の俺たちの体勢を思い出した。
「っーー!違っ…」
やばい。ふと冷静になった頭が、サーッと冷えていく。
見下ろした俺の身体は、床に尻をついた真鍋の腹の上、まるで真鍋を押し倒して伸し掛かり、抱っこされているような姿勢になっているのだ。
しかも腹を気使い伸ばそうとしたこの手は、まるで真鍋のワイシャツのボタンを外そうと、襲い掛かろうとしているように見えなくもなくて。
「違っ、俺、椅子っ、落ちっ…」
ジリッと火宮から湧き上がる、責めるような空気に、俺はワタワタと慌てながら、どうにも意味をなさない言葉を発し続けていた。
「だからっ、これは、真鍋さんっ、庇いっ…」
必死で状況を説明しようと言葉を紡ぎ続けながら、パッと真鍋の上から飛び降りる。
ようやく身動きが取れるようになったのだろう。真鍋もむくりと立ち上がり、パンパンと床に触れていた袖や尻を払って見せた。
「それで?」
ジロッと、火宮が真鍋に射殺さんばかりの鋭い睨みを向ける。
「はぁぁぁぁーっ」と、今日一番の長いため息が、真鍋の口から零れ落ちた。
「会長」
「なんだ。言い訳か?」
「ですから…。はぁっ、聞こえていたようですので、お分かりでしょう?」
なにを、とは言わないけれど、真鍋の言いたいことは火宮には伝わっているらしい。
ふん、と鼻を鳴らした火宮が、冷たい薄笑いをその唇に浮かべた。
「翼の喘ぎ声と、おまえの呻き声がな?」
ニヤリ、と冷笑がそのまま意地悪な笑みに変わる。
その表情の変化を見た真鍋が、心底呆れたように、今日何度目になるかともわからない溜息を吐き出した。
「はぁぁっ、ですから、あなたは…」
「クッ、まぁおまえが翼においそれと襲い掛かられるわけもなければ、それを甘んじて受け止めるわけもないけれどな」
「当然です」
「おまえが通話を取ったまま、何も話さず、衣擦れの音や呻き声、ドサドサと人が倒れる音が聞こえてきたから慌てて駆けつけてみればこの現状」
「襲撃のご心配をお掛けしたことは申し訳ありませんでした」
「クッ、後ろめたいことは何1つないか。だが、面白くないものは面白くないぞ」
ツン、と不機嫌そうに真鍋から目を逸らす火宮は、現状を正確に理解していて、その上でなお抑えきれない嫉妬心を堪えているように見えた。
「申し訳ありませんでした。これ以上の対応は不可能でした」
「ふん。おまえだからこそ、というのは理解も感謝もしている。だがな」
「翼」と、ジロッと今度はこちらに視線を移されて、俺は慌てて首を振った。
「だから、俺はそのっ、ちょっとうっかり椅子から落っこちそうになって…」
「で?」
「真鍋さんが、それをすんでのところで受け止めてくれて…」
もそもそと、続ける言い訳の声が、徐々に力なく、小さくなっていってしまっていることに、俺は気づいていた。
「それで?」
「う、だから…」
決して真鍋と密着するような後ろ暗い理由があったわけでもなければ、好きで触れあっていたわけでもないわけだけれども。
ニヤリ、と唇の端を吊り上げる意地悪な火宮の表情に、俺の言葉はついに途切れて消えてしまった。
「ククッ、どうせおまえが、だらしのない座り方でもしていて、横着の末に事故が起きでもしたんだろう?」
「っな…」
なんで分かるんだ。まるで見ていたみたいに。
思わず絶句してポカンと口を開けてしまったら、呆れたような真鍋の溜息と、火宮の堪え切れないクックッという笑い声が聞こえた。
「原因はおまえで、現状はおまえのドジの賜物だ、というわけだ。これは…」
あ、ヤバイ、その顔。
「仕置きだな?」と続くだろう、意地悪でサディスティックな笑みを、俺は嫌というほど知っている。
「違っ、だからっ、ごめんなさっ…」
こうなればもう、謝るが勝ちだ。
火宮が続きの言葉を紡ぐ前にと、慌てて謝罪を口にしたら、何故か火宮の顔は、ますます楽しそうに笑み崩れた。
「なるほど、悪いと思っているわけか」
「っは…?」
「真鍋」
ニヤリ、と笑ったままの、火宮の愉しげな声に、真鍋が「はい」と静かに頷く。
「え…?」
一体今の呼び声は、何を命じた言葉なんだろう。
どうやら真鍋には伝わっているらしい火宮のその意図が恐ろしすぎる。
「本日、夜の接待が1件ありますが」
「明日に回せ」
「本命をお1つにお絞りさせていただきますが、向かわれるまではご内密に」
スッと火宮に近づいた真鍋が、素早くメモをした紙切れを、意味ありげに手渡す。
「すぐにリザーブしておきます」
「頼んだ」
ニヤリ、と笑みを浮かべた火宮が、チラリと真鍋から受け取ったメモに視線を落とし、すぐにくしゃりとそれを握り締めた。
「なに?え?え?」
真鍋と火宮のやり取りがよくわからなかった俺が、キョロキョロと2人を見比べる視線の先で、真鍋が「ご愁傷様」と言わんばかりに冷たく目を細め、火宮が何故かひどく上機嫌になって、今丸めた紙切れを、ぽいとシュレッダーに放り込んだ。
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