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第586話
「ちょっ、まっ、何っ…?」
夕方過ぎ、結局あれからもずっと幹部室でごろごろと時間を潰していた俺のもとに、仕事を早めに終わらせたらしい火宮が迎えにやってきた。
わけもわからずズルズルと連れていかれるのは、火宮の送迎に使われる車の中で。
護衛とフェイクという車が数台連なる大仰な車列の中央、俺たちを乗せたいかにもな黒塗りの高級車は、今日泊まるらしいホテルの方へと走り出していた。
「火宮さん?」
思わず不安な声も出てしまうというもの。
隣に座った火宮から漂う空気が、もう嫌な予感がするのなんのって、艶やかに浮かれた雰囲気を隠しもしていないのだ。
「ねぇ、火宮さん。今日泊まるホテルって…」
スッ、スッと、大きな交差点を迎える度、フェイクだという車が、右へ左へと別れていく様が、濃いスモーク越しのガラスの向こうに見える。
最後に残った護衛の1台と、俺たちの乗る車の行く先が気になって気になって、隣の火宮を振り仰いだ俺に、火宮の笑みはますます深まった。
「ククッ、もうすぐ着く。期待か、覚悟か」
好きな方をしていろ、と笑う火宮に、ぎくりと身体の芯が凍える。
「まさか、ね?」
昼間のやり取りと、この浮かれに浮かれた火宮の様子。
当たってほしくない嫌な予感に、全身が包まれる。
「安心しろ。低俗なラブホテルなんかではないからな」
ニヤリ、と笑う火宮が、ほら、と視線を向ける先には、確かに俺の知るラブホと呼ばれる様相ではない、ご立派な佇まいのホテルが1つ。
ラグジュアリーホテルかと言われれば少しランクは落ちるかもしれない。けれどそこそこ高級感のあるホテルには違いない。
「さぁ着いた」
スーッと車が止まる小さな慣性を感じたときには、火宮が示したホテルの正面玄関が見えていた。
「あの…」
「黙って降りて、ついてこい」
ピシリとした命令口調に、グズグズと様子を探ろうとしていた俺は、ぴたりと口を噤んでしまう。
「護衛は、そこまででいい」
「かしこまりました」
スッと素早く周囲を確認し、尾行や待ち伏せのないことを確認した護衛の面々に、火宮が偉そうに告げる。
クイッとホテルのロビーを示されれば、護衛たちは黙って静かに頭を下げて引いて行った。
「行くぞ、翼」
慣れた仕草で腰に手を当てられ、エスコートされる。
チェックインにはすでに別の人間を走らせたらしく、火宮はそのまま真っ直ぐにエレベーターホールに向かっていった。
「会長」
途中、スッと近づいてきた1人の男が、火宮に手早くカードキーを渡し、そのまま何事もなかったかのように横を通り過ぎる。
『侵入者、細工や盗聴器、他怪しいものは特に』
『ご苦労』
ぼそっ、こそっとやり取りをしたような火宮と男の吐息が聞こえ、俺はチラッと火宮を見上げてしまった。
「どうした?」
「いえ…」
シラッとした火宮の様子に、気のせいだったかと、俺はフルフルと首を振る。
「さてと」
静かにやってきたエレベーターに乗り込めば、目的の部屋があるのだろう階へ連れていかれた。
他に乗り合わせている客の姿はなく、ぐるりと見回したエレベーター内は、やっぱりそれなりに高級感のある内装をしていた。
「ククッ、そう無防備な様子をされてもな」
「え…?」
言われて気づけば、そういえばここへ来るまでの警戒心が、すっかり薄れてしまっていた。
「高級ホテルと油断しているのか?」
ニヤリ、と笑った火宮の顔が、心底愉しげに崩れたところで、ポン、と静かな音を立てて、エレベーターが停止する。
スッと静かに開いていった扉の向こうは、やっぱりなんの変哲もない、そこそこ高級なホテルの廊下が広がっていた。
「右へ」
エレベーターを下りてすぐ、サッと腰を抱かれて、そのまま右手側の廊下にエスコートされる。
点々と見えるドアの間隔からは、1つ1つの部屋の広さが窺える。
「あの…?」
やっぱりちょっとお高い普通のホテルなんじゃ…と火宮を窺ったところで、目的の部屋の前にたどり着いたんだろう。
スッと立ち止まった火宮が、躊躇いなくカードキーを差し込んだ。
ピッ、と小さな音を立てて鍵が開かれ、ゆっくりとそのドアが開けられていく。
「っ!」
いや、予想をしていなかったわけじゃない。
けれども完全に警戒心がなくなっていたこともまた嘘ではなかった。
火宮に開けられた部屋のドアの向こう側。今日泊まるのであろうホテルの1室の室内は、俺の想像を軽く超えていた。
「な…」
「ククッ、外観で油断したか。確かにここは、セレブ御用達の、それなりのランクのホテルだが」
「っ…」
「そんな高級嗜好の人間の中にもな、様々な趣向を求める人間がいるということだ」
「っぁあ…」
「ここはそんな者たち仕様に作られた、趣味嗜好を楽しむための部屋だ」
スタスタと室内に入っていく火宮が、部屋に1歩入ったところでたまらず固まっている俺を振り返る。
「ククッ、どうした。驚いて声も出ないか?あぁそれとも期待に打ち震えて足が言うことを聞かないか」
「なっ、ばっ…」
思わず口をついて出そうになったのは、呆れ果てた暴言で。
けれども火宮のその後ろ、そこに見える室内の様相に、その声は上手く言葉にはならなかった。
「ほら、そんなところに突っ立っていないで、こちらへ来い」
「っ、う…」
「安心しろ。別にハードなことをするつもりも、過激なプレイを行う予定もないからな」
「は…プレ…」
火宮の言葉がグルグルと頭の中を回り、けれども理解が追い付かずに、途切れた吐息交じりの驚きだけが口をついた。
「とりあえず、ほら」
「うわぁっ」
動かない俺に痺れを切らしたか、火宮がズンズンと俺の側まで戻ってきて、ぐいと腕を引いた。
思わず転びそうになった俺は、慌ててバランスを取ろうともがく。
「ククッ、真鍋の上には、無抵抗に落ちたくせに」
「なっ、あれはっ、だって」
俺だって落ちたくて落ちたわけではない。
だけどただ、もう体勢を立て直しようもないほどに、崩れ切ったあの状態をどうしようもなかっただけで。
「クッ、事故でもものの弾みでもなんでもな、俺以外の男とあんな形で密着していたことが、俺は非常に面白くない」
「う…」
「言いがかりだろうが大人げなかろうが構わない。翼、今夜は覚悟しろ」
ニヤリ、と唇の端を吊り上げた火宮の、嫉妬深さも独占欲の強さも、俺は重々承知している。
「はぁぁぁっ」
分かりましたよ。俺がうっかり真鍋の前で失態を晒したことが、そもそも間違いだったから。
「ククッ、それにしてもあの真鍋がな」
身を挺して反射的に俺を守ったことが、火宮には興味深く映るらしい。
「あの程度の高さの椅子から落ちたくらい、大したことはないだろうに」
言われれば確かにそうなのだ。いくら下は固い床だったとしても、悪くて打ち身程度、よくて何の怪我もなし、という程度の高さしかなかったのだ、あの事務椅子は。
それを真鍋は、あの状態で見捨てたとしても、多分真鍋にはなんの咎もかからなかっただろうはずなのに。
自分の身を犠牲にしてまで庇ってくれた。
「随分と距離を縮めたものだな」
「っ…」
ふ、と目を細めて微笑んだ火宮に、俺はハッととあることに気が付いた。
あぁそうか、この人、あの話を聞いているんだ。
それもそうだ。真鍋が報告しないわけがない。
俺の弱気な発言も、悩みも揺らぎも、俺の考えていることそのすべてを。
「翼」
あぁそうか。だから今日は、こんなホテルの、こんな部屋なんだ。
静かに呼ばれるその声に、火宮の深慮と確かな想いが感じられる。
「あぁ…」
だからこの人なんだ。
俺が隣にいるべきは、この人のこの傍らだ。
「さぁ翼、仕置きの時間だ」
スッと目を細めた火宮が、意地悪で妖しい、魅力的な笑みをふわりと浮かべる。
「はい」と答えたその声は、どことなく弾んでしまっていないだろうか。
あなたに染め上げられる俺のすべても、あなたが与えてくれるすべての思いも、その行動も。
俺は全部受け止める。こんな意地悪でどSな恋人に、ついていけるのは俺しかいない。
悪戯で意地悪でいやらしくて、どこか本気で、本音も滲む。
俺を愛おしいと語り、だからこそとことんまで責め上げる。
複雑な色をした火宮の言葉に、浮かんでしまうのは確かな笑み。
「絡めとって、縛り付けて、グズグズに溶かして、なにも考えられなくなるくらい」
ふわりと1歩踏み出した俺を、迷いなく支える火宮の腕に、俺はゆったりと身を委ねる。
ゆっくりと引かれていく腕に従えば、ククッと愉悦に喉を鳴らした火宮の唇に、ふわりと唇が塞がれた。
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