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第596話
「それでは。くれぐれも、身辺にはお気をつけて」
ふわりと気障ったらしくお辞儀をして、実園がヒラリと身を翻した。
「チッ、尾けろ」
ギロッと鋭く実園の背を睨み据え、真鍋がボソリと低く命じた。
すぐに護衛のうちの1人が、パッと身を翻す。
「はぁっ、まったく、狭霧組は敵にはならないと思っていたが…」
厄介な、と額を押さえて、面倒そうな表情を隠しもせずに、真鍋が1人呟いている。
「どうやってこのホテルを突き止めたのやら…。よほど優秀な情報屋がついているらしいな」
ひやりとした冷たい空気を纏い、ブツブツと何かを呟いている真鍋をそろりと見上げる。
「とりあえず狭霧組の動向も見張るとして…あぁ、考えることが山積みだ。…っと、申し訳ありません、翼さん。こちらのお話です。さぁ、参りましょう」
俺の視線に気が付いたのか、真鍋がハッといつものクールな無表情に戻ってしまう。
「あ、の…」
「大丈夫ですよ、翼さん。私がおります」
にこりと、それは嘘くさい、作られた完璧な笑顔だった。
けれどもその形の良い唇から紡がれたのは、これ以上ないほど傲慢な、自信に溢れた真鍋の言葉で。
「っ…はい」
そうだ。信用していい。蒼羽会にはこの人がいる。
ナンバー2にして火宮の右腕で、最高に有能な幹部様。
「こちらです」
こくりと頷いた俺に、スッと頭を下げた真鍋が、俺を車の方へとエスコートする。
そのときふわりと真鍋の口元に浮かんだ笑みは、多分、偽物ではなかっただろうと、俺はなんとなくそう思った。
そうして、バタバタとざわつく蒼羽会の事務所で、俺は宣言通り幹部室を間借りして、1日静かに1人で過ごしていた。
途中、火宮からの差し入れだと、昼食に豪華な弁当が運び込まれ、多忙で食事をとる暇もないと言う火宮や真鍋、池田たちに遠慮しつつも、俺は1人で食事を済ませた。
その後もゲームだ菓子だと、いいと言うのに次々に差し入れられ、その気配りに感謝しながら、俺はそう退屈することもなく、夕方を迎えていた。
「ふぁぁ、次は何しよっかな…」
ちらりと見上げた時計の針は午後6時。
常時ならば夕食の準備を始めて、料理にいそしみ始める時間だけれど。
ここ数日はホテル住まいで、その習慣もすっかりご無沙汰だ。
先ほどまで夢中になっていたパズルゲームを放り出し、俺はぐるりと今は人のいない幹部室を見回した。
「っ?」
ふと、微かな物音が聞こえたと思った瞬間、ガチャリとノックもなしに幹部室のドアが開いた。
スゥと大きく開いて行くドアの間から、ブラックスーツの人影が入って来る。
「翼」
「あ、火宮さん」
ズカズカと遠慮もなしに中に入ってきた火宮の姿に、俺はパッと椅子から立ち上がった。
「どうかしましたか?」
真鍋や池田なら、忙しそうに駆け回っていて幹部室にはいないけど。
「いや、ちょっと仕事の合間に、休憩がてら」
顔を見に来た、と微笑む火宮にきゅんとする。
「あはは。お疲れ様です」
パッと火宮に駆け寄り、ぽすんとその身体に抱き付いた俺を、火宮はガッシリと受け止めてくれた。
「ククッ、翼の匂いだ」
癒される、と囁かれれば、ゾクリと背筋を這いあがるのは、慣れ親しんだ快感で。
「さすがに疲れた…」
はぁ、と漏らされる溜息は、珍しく火宮が飾ることなく吐き出した弱音だった。
「大丈夫ですか?俺になにかできること…」
お疲れの火宮にしてあげられることがあるのなら、なんだってしてあげたい。
ちらりと頭上の火宮の顔を見上げたら、ニヤリと意地の悪そうな笑みが返された。
「クッ、可愛いことを。今すぐこの場で抱き潰したい」
「はぁぁっ?バカですかっ」
この人はぁぁぁ。
人がせっかく親切心で申し出てやれば、すぐそういうすっ呆けた発言を返してくるんだから。
呆れて思わず飛び出した暴言と共に、俺はトンッと火宮の胸を押し返し、ぎゅぅっと眉をひそめて火宮を睨みつけてやった。
「ククッ、相変わらずのおまえだな」
「ふんっだ、火宮さんこそ相変わらずじゃないですか」
このエロオヤジ、とはさすがに口にはしなかったけれど、多分俺の目とやらが語ったらしい。
「クックックッ、仕置きか?」
「っな…やですよ。俺まだ何も言ってませんっ」
「バカと言っただろう?」
「うー、だって、バカなこと言うからバカだって言っただけですっ」
暴言だけど事実だ。
ツンとそっぽを向いて唇を尖らせてやった俺に、火宮は機嫌を損ねた様子もなく、クックッと楽しそうに喉を鳴らした。
「翼」
「っ…」
うん、分かっていますよ。
急にストンと真面目な声色で俺を呼んだ火宮に、俺はキュッと下唇を噛み締めながらそろりと視線を戻した。
「すまないが、今日は帰れそうもない」
「はい」
分かってる。
あなたがこの時間に『仕事の合間』で『休憩』と言ってやってきたんだ。
帰り支度もせず、その身一つで。
「今日は1人でホテルに泊まれ」
「はい」
あなたがそうして欲しいと言うならば、俺は大人しくそれに従います。
「真鍋をつける」
「ありがとうございます」
「ふっ、俺の安心のためだ」
そう言って、あなたはいつも、俺の気を軽くしてくれるんだよね。
「夕食も、俺は付き合えそうもないから、真鍋とでも、どこかで済ませていけ」
ぽん、と頭に触れる火宮の手が、いつにもまして優しく感じるのはなんだろう。
「火宮さん…?」
いつもなら、嫉妬と独占欲が強いこの人のことだ。俺が火宮のいないところで誰かと食事だなんて、そんなの許すはずがないと思うんだけど。
「翼…」
「っ!」
すまない、と続きそうな火宮の言葉の先を察して、俺は咄嗟に火宮にしがみつき、その唇を自分の唇で乱暴に塞いでいた。
「ん、ッ?つばさ…」
「んっ、ふ、は…」
わぁ、自分で仕掛けておいて恥ずかしい。
にゅる、なんて強引に差し入れた舌に、ピクと震える火宮の舌に今さらドキドキする。
「ん、おい…」
「シーッ、黙って」
訳が分からなそうに焦りを浮かべる火宮に、にまりと笑って、俺は火宮の抵抗がやむまで、たっぷりとその唇を吸い上げた。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ…」
あぁもう、俺から仕掛けたキスなのに。
いつの間にか気を取り直してしまった火宮に反撃を食らい、すっかり腰砕けにされてしまったのは俺の方だった。
「ククッ、なんだ。おまえが仕組んできたくせに」
「はぁっ、そう、ですけど、あなた、やりすぎ…」
口の中の知りつくされた弱いところを、これでもかというほど舐め上げられた。
そのお陰で緩く勃ちあがりかけてしまった中心部など、もう知りたくもない。
「ふっ、まったく、おまえはな」
スゥッと薄く目を眇める火宮は、きっと俺の突然の行動の意味を理解したんだろう。
面白そうに、だけどどこか頼もしそうに見てくれる、その視線がとても嬉しい。
「ん。それじゃぁ俺は、真鍋さんの手が空いたら、先に帰らせてもらいますね」
「あぁ、そうしろ」
「火宮さんは、お仕事頑張ってください」
にっ、と笑ってあげた俺に、火宮の何とも言えない微苦笑が向いた。
「あぁわかった」なんて笑う火宮に、ちゃんと俺の言葉は伝わったんだろうか。
謝罪や負い目を感じることなどはいらないと、火宮の唇を塞いだその意図がちゃんと。
『俺はあなたを甘やかさない。過去のあなたの傷を塞いだのは誰だと思ってる』
ふと浮かぶ、傲慢なほどの強い思いを、目一杯の笑顔の裏に押し隠す。
『あなたはまだまだ強くなれる』
俺と2人なら。俺がいるから。
勝手に背負って、勝手に弱くなろうとする火宮に、少しの苛立ちを感じながらも、俺は傲慢に微笑んでやった。
「では、おやすみなさい」
「あぁ、ゆっくり休め」
「火宮さんも、無理だけはしないでください」
「ありがとう」
ふわりと微笑んだ火宮が、少しだけ名残惜しそうにしながら、そっと幹部室を出て行った。
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