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第598話
そうして、遠慮なく次々と握りを頼み、真鍋も一緒になって、随分と食事が進んだ頃。
ふと、店の入り口の扉が開く音がした。
「ッ…?!」
突然、真鍋の纏う空気がピリッと張り詰める。
「え…?」
バッとすぐさま席から立ち上がった真鍋に、俺は驚いてポカンと固まった。
「ま、なべ、さん…?」
何事?と問う間もなく、真鍋が俺を背後に隠すように前に立ちはだかる。
ゆっくりと店内に足を踏み入れてきた人物が、カツンと足を1歩前に進めたのが、その足音で分かった。
「ッ、おまえは…」
ビリッとした痛いほどの緊張感を含んだ真鍋の声だった。
低く唸るように紡がれたそれが、今店内に入ってきたのだろう人の方へ向けられている。
[蒼羽会は火宮会長の、情人、翼殿。同じく、右腕であられる真鍋殿で間違いありませんか?]
っ…。
驚いた。この真鍋より、単調で感情を一切含まない声を出せる人間がいるだなんて。
それほどまでに、今、店に入ってきた人物が突然紡ぎ出した言葉は、平坦なものだった。
声の低さから、それが男のものであるというのはわかるけれど、それ以外の情報がまったく掴めない、特徴のなさすぎる声だ。
言語は多分中国語。それだけが理解できるその言葉に、真鍋がチリ、と肌を刺すような緊張感をさらに高めたのを感じた。
「黒幇、六合会の劉永華…」
ジリ、と警戒心に溢れた真鍋の呟きだった。
疑問が揺れるその言葉は日本語で、俺にもその言葉の意味は理解できる。
「黒幇…って、中国のマフィアの、リュウ?…って、アキさんの…ううん、連明貴の、側近…」
真鍋と池田が交わしていた話では、確かそうだったはずだ。
ぼんやりと、そのことを思い出しながら呟いていた俺に、真鍋の空気がふらりと揺れた。
「翼さん、お下がりください」
そっと席を立つよう促され、劉と距離を取るよう指示される。
無言でコクンと頷いた俺は、言われるがまま、真鍋の背後でソロソロと行動を起こした。
そのときチラリと真鍋の背中越しに見た劉は、黒髪黒目ののっぺりとした印象の人形のような男だった。
美形…には違いないんだろうけれど、あまりに表情がなさ過ぎて、どうにもその容姿を上手く捉えられない。
ギクリ、と本能的な恐怖を感じながら、ゆっくりと店の奥側へ下がった俺は、それを確認した真鍋が、ジリッとまたも緊張感を高めたのが分かった。
[1つお聞きします。外の見張りはどうしました?]
不意に、とても流暢な中国語が、真鍋の口から飛び出した。
その声もまた平坦で、何の感情の揺れも映さない。
俺は聞き慣れた、けれど部下さんたちはよく震えあがっているその声を、劉は平然としたまま受け止めていた。
[少々眠っていただきました]
クスッと笑う劉の声だった。けれど、それすらもまた、作り物のように、楽しいとも小馬鹿にしているとも、なんの感情も映さない笑い声で。
「チッ…」
珍しく、凶悪に舌打ちされた真鍋の声の方が、よほど苛立ちや警戒心を含んでしまっていた。
[安心してください。殺してはいません]
[……]
劉の言葉に、ギロッとその本当のところを探るように、真鍋の視線が鋭くなる。
ビリビリと肌を刺す、真鍋のこの冷たいオーラに、俺でさえゾクリと震えあがっているというのに、劉という男はどこまでも平然とその目の前に立っている。
「っ…」
これが、中国マフィアの頂点の側近を務める男か。
純粋に、怖いと思った。
2人の会話は中国語で、残念ながら俺には何を言っているのかがまったく分からない。
ただ、2人の間に流れる空気は、明らかに他を圧倒している。
[わざわざ見張りを倒し、このような場所へやってきた用件は]
ギリッと奥歯を軋ませそうな、真鍋の苛立ちに溢れた声だった。
どんな会話が交わされてるのか不安で、でもただ見守るしかできない俺に、ふと劉の視線が向いた気がした。
「え…?」
俺?
振り返りはしなかったけれど、真鍋の意識もこちらに向いたのが分かって、なんだかドクドクと嫌な感じに鼓動が早鐘を打ち始めた。
『連が…いえ、アキが、翼殿の招来を所望しております』
不意に切り替えられた言語は英語で、それは明らかに俺に向けられていた。
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