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第599話
『ア、キ、さん、が…?』
ふと浮かんだのは、にこりと人懐こく笑う、アキの笑顔だった。
その正体が連明貴という、マフィアのトップだと分かっていながら、俺にはどうしても、あのアキとその肩書きが繋がらない。
ふらりと身体を横にずらし、真鍋の後ろから劉を覗き見るように顔を出したら、「駄目です、翼さん」と、真鍋の低く唸るような制止の声が掛かった。
「でも…」
「いけません」
フルフルと、今度は軽く首を振る仕草も追加され、真鍋に咎められてしまう。
「っ…」
俺は、ぎゅっと下唇を噛み締めて、固く瞳を閉じた。
そうだ、分かっている。
アキは本当は連明貴という名の男で、中国マフィアのボスだ。
目の前にいるのは、その使いでやってきた、側近の劉永華というマフィアの人間。
分かっている。分かっている。
俺がここでノコノコと、この劉という男について行ってはいけない。
まるで呪文のように、俺はひたすら自らに言い聞かせる。
ふぅ、と1つ息を吐き、ゆっくりと目を開いた俺は、コクリと一つ、真鍋に頷いた。
スッと真鍋が再び俺を劉の目から隠すように、無言で身体の位置を移動させる。
『なるほど。大人しく、お越しくださるつもりはない、と』
俺や真鍋の動きに気づいたのだろう。劉が、淡々とした、だけど薄く目を眇めたんだろうな、と分かるような冷たく鋭い英語をポンと放った。
「っ…」
ぞくり、とするような冷気が、一気に店内を支配する。
真鍋が、臨戦態勢を整える…と思った瞬間、パチンと1つ、劉が指先を擦り合わせた音を立てた。
「っえ…?」
瞬きする間もあればこそ。
ガラッと開いた入り口の扉から、タタッと流れるように入ってきた黒服の男が数人。
チャッ、と両腕を伸ばし、劉の左右にズラリと並ぶ形で、黒光りする武器をこちらに向かって構えている。
その銃口は真鍋を狙い、その後ろの俺にも定められ、そしてカウンターの向こうにいる寿司職人にも向けられていた。
「チッ…」
真鍋も真鍋で、いつの間に取り出したのか。いや、そんなものを携帯していたのか。
驚くような素早さで、やはり同じように銃を片手で構えていたのだが、その銃口は1つ、劉の心臓だけを狙っていた。
『ふふ』
にこり、と弧を描いた劉の目が、そんな真鍋の銃身を、恐れることなく真っ直ぐに見返した。
『さすがは蒼羽会の幹部殿、反射神経は素晴らしい』
にぃっと口角を上げる劉だけど、その顔は笑顔と呼ぶにはあまりに嘘くさかった。
『賞賛に値します、が、あなたがその引き金を引いた瞬間、私も死にますが、あなたと、あなたの守るべきそこの翼殿と、無関係な職人殿の死体も転がることになります』
多勢に無勢。素人の俺が見たって、この状況で有利なのは誰なのか、明らかだった。
『死なせてよろしいのですか?』
にこり、と笑う劉の、その声だけが、なんの感情も映さずに、ただ淡々と紡がれていた。
「翼さん」
ボソリ、と真鍋の声が、後で固まっている俺に掛かる。
「申し訳ありません」
ハッ、と短く息を吐いて、諦めを滲ませた真鍋の手が、ゆっくりと下ろされる。
『賢明な判断ですね』
淡々と紡がれる劉の声が、そのまま銃を手放せと真鍋に命じた。
パッと手のひらを開いた真鍋の手から、カラーンと銃が床に落ちていった。
「っ…」
真鍋の靴の先が、それをコン、と劉の方へ向かって蹴り出す。
スーッと床を滑った銃が、カツン、と劉の足元に当たって止まった。
『両手を上げて』
身体検査をします、と告げた劉の声に従って、銃を構えたままの黒服の男が2人、真鍋の側に寄っていく。
ほぼ同時に、俺に銃口を向けた銃を持っていた男が、ゆっくりと俺の真横まで移動してきた。
「っ、ぁ…」
ドキリ、と鼓動が跳ね、ガクガクと足が震えてくる。
この日本に住んでいて、銃をこんな風に間近に向けられる経験など、まったくもってあるはずがない。
その引き金に掛かった指に少しでも力が込められれば、一瞬にして命が奪われる、殺傷能力の高い武器。
スゥッと血の気が引いて、冷や汗がタラタラと流れ、息が苦しくてハクハクと喘ぎが漏れた。
『その方はっ、なにも武器など持っていませんっ』
ハッと焦ったような真鍋の声が、パニックになりかけた俺の耳に届いてきた。
『荒事にも慣れていません。あまり無体な真似は控えてください』
両手をホールドアップの状態に留め、パンパンと、黒服の男2人に体中を探られながら、真鍋が俺を振り返る。
「翼さん、大丈夫です、落ち着いてください。ここであなたの命を奪うメリットは、劉側にはありません。そのまま大人しく、こいつらの言うことに従ってください」
必ずお守りします、と、珍しく強い光を宿した真鍋の目が、はっきりと俺に保障していた。
「っ、ん…」
怖い。
少しでも気を抜けば、恐怖で叫び出してしまいそうだ。
そうでなくてもすでに、立っているのがやっとなほど、足は情けなく震えているし、目に溜まった涙は、滲む視界で分かる。
「翼さん」
「っ、は…」
はぁはぁと、荒くなっていく息の下で、それでも俺は、必死で真鍋に頷いた。
『スマートフォンや発信機の類は?』
『み、みぎ、の、尻ポケット…』
引き攣る舌をもつれさせながら、目の前で銃口を揺らす男に必死で答える。
俺の答えを聞き、すぐさまスッとポケットのスマホが抜かれていったのは、その感触から知れた。
向こうでは真鍋が、スマホや予備のナイフを次々と奪わていっている。
「っ…」
丸腰になったことを確認したんだろう。
真鍋の両手がその背に回され、グルグルと強そうなロープで縛られていった。
「あ、あぁ、ぁ…」
その姿を見て、俺にも静かに諦めが降り注ぐ。
ぼんやりと、意味をなさない喘ぎ声が、空しく口から零れ落ちた。
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