599 / 719

第599話

『ア、キ、さん、が…?』 ふと浮かんだのは、にこりと人懐こく笑う、アキの笑顔だった。 その正体が連明貴という、マフィアのトップだと分かっていながら、俺にはどうしても、あのアキとその肩書きが繋がらない。 ふらりと身体を横にずらし、真鍋の後ろから劉を覗き見るように顔を出したら、「駄目です、翼さん」と、真鍋の低く唸るような制止の声が掛かった。 「でも…」 「いけません」 フルフルと、今度は軽く首を振る仕草も追加され、真鍋に咎められてしまう。 「っ…」 俺は、ぎゅっと下唇を噛み締めて、固く瞳を閉じた。 そうだ、分かっている。 アキは本当は連明貴という名の男で、中国マフィアのボスだ。 目の前にいるのは、その使いでやってきた、側近の劉永華というマフィアの人間。 分かっている。分かっている。 俺がここでノコノコと、この劉という男について行ってはいけない。 まるで呪文のように、俺はひたすら自らに言い聞かせる。 ふぅ、と1つ息を吐き、ゆっくりと目を開いた俺は、コクリと一つ、真鍋に頷いた。 スッと真鍋が再び俺を劉の目から隠すように、無言で身体の位置を移動させる。 『なるほど。大人しく、お越しくださるつもりはない、と』 俺や真鍋の動きに気づいたのだろう。劉が、淡々とした、だけど薄く目を眇めたんだろうな、と分かるような冷たく鋭い英語をポンと放った。 「っ…」 ぞくり、とするような冷気が、一気に店内を支配する。 真鍋が、臨戦態勢を整える…と思った瞬間、パチンと1つ、劉が指先を擦り合わせた音を立てた。 「っえ…?」 瞬きする間もあればこそ。 ガラッと開いた入り口の扉から、タタッと流れるように入ってきた黒服の男が数人。 チャッ、と両腕を伸ばし、劉の左右にズラリと並ぶ形で、黒光りする武器をこちらに向かって構えている。 その銃口は真鍋を狙い、その後ろの俺にも定められ、そしてカウンターの向こうにいる寿司職人にも向けられていた。 「チッ…」 真鍋も真鍋で、いつの間に取り出したのか。いや、そんなものを携帯していたのか。 驚くような素早さで、やはり同じように銃を片手で構えていたのだが、その銃口は1つ、劉の心臓だけを狙っていた。 『ふふ』 にこり、と弧を描いた劉の目が、そんな真鍋の銃身を、恐れることなく真っ直ぐに見返した。 『さすがは蒼羽会の幹部殿、反射神経は素晴らしい』 にぃっと口角を上げる劉だけど、その顔は笑顔と呼ぶにはあまりに嘘くさかった。 『賞賛に値します、が、あなたがその引き金を引いた瞬間、私も死にますが、あなたと、あなたの守るべきそこの翼殿と、無関係な職人殿の死体も転がることになります』 多勢に無勢。素人の俺が見たって、この状況で有利なのは誰なのか、明らかだった。 『死なせてよろしいのですか?』 にこり、と笑う劉の、その声だけが、なんの感情も映さずに、ただ淡々と紡がれていた。 「翼さん」 ボソリ、と真鍋の声が、後で固まっている俺に掛かる。 「申し訳ありません」 ハッ、と短く息を吐いて、諦めを滲ませた真鍋の手が、ゆっくりと下ろされる。 『賢明な判断ですね』 淡々と紡がれる劉の声が、そのまま銃を手放せと真鍋に命じた。 パッと手のひらを開いた真鍋の手から、カラーンと銃が床に落ちていった。 「っ…」 真鍋の靴の先が、それをコン、と劉の方へ向かって蹴り出す。 スーッと床を滑った銃が、カツン、と劉の足元に当たって止まった。 『両手を上げて』 身体検査をします、と告げた劉の声に従って、銃を構えたままの黒服の男が2人、真鍋の側に寄っていく。 ほぼ同時に、俺に銃口を向けた銃を持っていた男が、ゆっくりと俺の真横まで移動してきた。 「っ、ぁ…」 ドキリ、と鼓動が跳ね、ガクガクと足が震えてくる。 この日本に住んでいて、銃をこんな風に間近に向けられる経験など、まったくもってあるはずがない。 その引き金に掛かった指に少しでも力が込められれば、一瞬にして命が奪われる、殺傷能力の高い武器。 スゥッと血の気が引いて、冷や汗がタラタラと流れ、息が苦しくてハクハクと喘ぎが漏れた。 『その方はっ、なにも武器など持っていませんっ』 ハッと焦ったような真鍋の声が、パニックになりかけた俺の耳に届いてきた。 『荒事にも慣れていません。あまり無体な真似は控えてください』 両手をホールドアップの状態に留め、パンパンと、黒服の男2人に体中を探られながら、真鍋が俺を振り返る。 「翼さん、大丈夫です、落ち着いてください。ここであなたの命を奪うメリットは、劉側にはありません。そのまま大人しく、こいつらの言うことに従ってください」 必ずお守りします、と、珍しく強い光を宿した真鍋の目が、はっきりと俺に保障していた。 「っ、ん…」 怖い。 少しでも気を抜けば、恐怖で叫び出してしまいそうだ。 そうでなくてもすでに、立っているのがやっとなほど、足は情けなく震えているし、目に溜まった涙は、滲む視界で分かる。 「翼さん」 「っ、は…」 はぁはぁと、荒くなっていく息の下で、それでも俺は、必死で真鍋に頷いた。 『スマートフォンや発信機の類は?』 『み、みぎ、の、尻ポケット…』 引き攣る舌をもつれさせながら、目の前で銃口を揺らす男に必死で答える。 俺の答えを聞き、すぐさまスッとポケットのスマホが抜かれていったのは、その感触から知れた。 向こうでは真鍋が、スマホや予備のナイフを次々と奪わていっている。 「っ…」 丸腰になったことを確認したんだろう。 真鍋の両手がその背に回され、グルグルと強そうなロープで縛られていった。 「あ、あぁ、ぁ…」 その姿を見て、俺にも静かに諦めが降り注ぐ。 ぼんやりと、意味をなさない喘ぎ声が、空しく口から零れ落ちた。

ともだちにシェアしよう!