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第601話
向かった先は、俺の知らない、どこか高級ホテルのような内装の、綺麗で豪奢な部屋の中だった。
といっても、建物自体はなんの変哲もなさそうな商業ビルのような外見をしていたと記憶している。
ここへ来る道順の記憶は、あまりに俺の知らない景色ばかりを通り過ぎ、残念ながら方角さえも分からない、なんの役にも立たないものだった。
『進め』
トンッ、と銃の先で背中を押され、たたらを踏みながら毛足の長い絨毯を足裏に捉える。
ふらりと進んだ先に、まるで玉座のように。けれども実際はただ多少豪華な椅子であるそこに、悠然と足を組み、座っている男を見つけた。
「っ…アキさん」
ぽつりと零れ落ちたのは、呆然とした響きを宿す日本語で。
ふわり、と人懐っこく微笑んだアキが、コテンと可愛らしく小首を傾げて見せた。
『翼』
するりとアキの口から漏れたのは、英語発音の俺の名前だ。
コロコロと鈴が鳴るような涼やかな声に、俺は自分の顔がぐしゃりと歪むのを感じた。
『どうしてっ…』
ぎゅぅっ、と苦しくなる胸元を、右手で握りしめる。
苦々しく吐き出した声は、ゆったりと微笑むアキの笑顔に吸い込まれていった。
『ようこそ、翼。いや、七重組系蒼羽会、会長夫人の、火宮翼?』
スゥッと吊り上がった口元が、冷然とした笑みを湛えた。
アキが、明貴に移り変わっていく。
『っ…』
どこかでは期待していた。
けれどもどこにも希望はなかった。
その現実をまざまざと突き付けられて、俺の顔にはきっと、半端な泣き笑いが浮かんだだろう。
『レン、ミングゥェイ…。中国黒幇、六合会首領…』
震える声が紡いだ言葉を、アキが…いや、明貴が、満足そうに目を細めて受け止めた。
『さすがは優秀な諜報員を飼っているようだ。随分と容易く私の正体に気が付いた』
ぽん、と何かが明貴の手からこちらに向かって投げ寄越された。
ぽとりと絨毯の上に落ちたそれは、小指サイズほどの何か赤黒い物体で…。
「え…」
いや、違う。
小指サイズの何か、ではなく、小指っ…?
「クソッ、殺したのかっ…」
不意に、憎々しげな声がすぐ側の低い位置から聞こえて、俺はビクリと肩を揺らした。
「っ、真鍋さんっ」
声の主は、いつの間に目を覚まし、いつの間に連れて来られていたのか、俺の数歩隣に、銃口を突き付けられたまま跪かされている真鍋のもので。
「真鍋さんっ、大丈夫です…っ」
「か?」の言葉を紡ぎ、駆け寄ろうとする前に、カチリ、と真鍋に向いた銃が小さな音を立てて、俺は反射的にビクンッと動きを止めていた。
『翼。身勝手な行動は命取りだよ』
ふふ、と微笑む明貴の声に、俺はギギギと音がしそうなほどのぎこちなさで、ゆっくりとそちらに視線を戻した。
『そちらの幹部様は分かっているみたいだけど』
「チッ」と真鍋には似合わない、壮絶な舌打ちが弾ける。
『こちらは、その男を殺してしまうことくらい、造作もないのだから』
まるで「明日の天気は晴れですね」というような、軽やかで悪意の1つも感じない平凡な言葉のように聞こえた。
けれどもその内容はとんでもない。
「ま、なべ、さん…」
「残念ながら」
その言葉は事実だと、真鍋が力なく首を振る。
っ…。
息を飲む音は、声にはならなかった。
『ふふ、さて、翼。こちらとそちらの力関係がわかった上で、少し話をしようか』
にこり、と微笑む明貴は、俺の知るアキそのもので、目の端に映る拳銃さえ見えなければ、思わず錯覚しそうになる。
友人に招かれて訪れた、友人との談笑の場なのかと。
『ねぇ翼。私は今日、きみに1つお願いがあって、ここに呼んだんだ』
コロリ、と軽やかな鈴の音のような声を響かせて、明貴は無邪気に笑った。
けれどもその手に黒光りする武器が握られているのは、決して俺の見間違いではないだろう。
しかも安全装置は外れ、銃口は真っ直ぐに俺に向いている。
『っ…アキ、さ、ん…』
アキではない。明貴だ。
分かっている。分かっている。けれど。
『連だ。中国マフィアの頂点、六合会の、トップ』
にこり、と笑った明貴が、スッと片手を器用に使って、その目の中から小さなレンズを取り出した。
『っ…オッドアイ…』
『ッ!連ッ…』
俺の呆然とした呟きと、真鍋の息を飲む声が同時に響いた。
『騙して、ごめんね?』
クスッと笑う明貴は無邪気だ。
無邪気だけれど、その目だけが鋭い眼光を放っている。
『っ…どうして』
今日何度目とも分からない呟きを漏らした俺に、明貴は楽しげに、ふわりと笑ってコテンと首を傾げた。
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