603 / 719

第603話

※流血表現があります。苦手な方はご注意下さい。 『俺、か…』 「火宮が出世に乗り気でない」その情報を漏らしたのは、他でもなく俺だった。 「俺の存在を優先して、上に上がるチャンスを捨てる気でいる」そうアキに話したのは、間違いなく俺のこの口だ。 ぽつりと漏れる呟きを、明貴の鮮やかな笑顔が拾っていった。 『そうだね、翼が言ってた。でもきみは、火宮に出世を望んでた』 『はい…』 そうだ。苦しいのならおいでと差し伸べられたアキの手を、振り払って火宮を選んだのも俺だった。 『きみには随分な利用価値があると思ったよ。だけど同時に、真っ直ぐに火宮を想い、しなやかな強さを見せつけるきみを、本気で欲しいと思った』 ギラリ、と瞳の奥に欲を滲ませ、カチリ、と銃口を真っ直ぐに俺に向けた明貴が、ふわりと笑った。 『ま、さ、か…』 『うん、そのまさか』 『っ…』 ギギギ、と自分の奥歯が軋む音が聞こえた。 『私のもとにおいで、翼。きみをここに拉致したのは、きみを私のものにするためだ』 ふわり、と笑う明貴の顔が、ぞくりとするほど壮絶だった。 ごくりと喉が上下する。 震える唇がハクハクと小さな喘ぎを漏らす。 答えは決まっている。 俺が選ぶのは、いつだって火宮刃、ただその人、1人だ。 『断る、と、言ったら…?』 銃を向けられての誘いなど、断言した答えなど出せはしなかった。 それでも恐る恐る告げてみた声に、明貴の笑みがふわりと深くなった。 「っ?!」 バンッ!と、明貴の持つ銃口が火を吹いた。 一瞬の出来事でわけがわからない。 耳にジーンと残る激しい発砲音から、銃弾が放たれたのだと理解はできるけれど、身体のどこにも痛みを感じることはなく、血が流れる素振りもない。 「な、に…?」 威嚇射撃?と傾いだ首に、思わず日本語の呟きが漏れ、呆然と明貴を見つめたら、その目はチラリと、俺の横の方にいたはずの真鍋の方に向いた。 「っひ…」 明貴の視線を追って、思わずそちらに顔を向けたら、その足、跪いた太腿から、ジワジワと血を流す真鍋の姿を見つけた。 「真鍋さんっ!」 まさか、真鍋が。 俺の答えのせいで、真鍋が撃たれたーー。 そのことだけを理解して、頭の中がパニックを起こす。 「真鍋さ…」 ふらり、と伸ばした手を真鍋に向け、よろり、と足を1歩踏み出した俺の行く先の床に、ダンッ、とまた一つ、銃弾が飛んできた。 『動くな』 『っ…』 明貴の鋭い声だった。 反射的にビクッと俺の足は動きを止める。 『いい子だ。大丈夫、弾は貫通しているし、動脈は切っていないはずだよ。まだ、死なない』 ふふ、と笑う明貴は、真鍋の足から流れる血を目を細めて見つめてから、あまりに冷静過ぎる言葉を紡いでいた。 『連、さんっ…』 『うん、でも分かった?きみの答え次第では、そこの幹部様が死んじゃうよ?』 クスクスと、絶対的強者の佇まいで笑い声を漏らす明貴に、俺はギュッと唇を噛み締めた。 ボロッと目から大粒の涙がこぼれる。 『翼?泣いちゃった?』 クスクスと、どこまでも楽しそうに笑う明貴が憎かった。 なんの躊躇いもなく、軽々と銃弾を放って見せる明貴が怖かった。 人の命をなんとも思わない、マフィアのボス。 その姿を突然見せつけられた俺は、ガクガクと震える足を、必死で強く踏ん張った。 『それで、答えは?私を選ぶのなら、その幹部様の命は助けてあげる。けれど拒むと言うなら、どうぞ?今すぐこの部屋から出て行くといい。大丈夫、きみは無事に逃がしてあげる。でもその代わり、きみがこの部屋を1歩出た瞬間、その幹部様は確実に死ぬけどね』 ふふ、と微笑む明貴の言葉には、選択肢などあってないようなものだった。 イエスと答えるしかない。 俺に真鍋を見捨てて自分だけ逃げることなどできるわけがない。 じわり、じわりと血の染みを広げていく真鍋の足を見ながら、俺はぎゅっと唇を噛み締めた。 「翼さんっ、私の命など、さっさとお切り捨てくださいっ…」 自分を犠牲にして逃げろ、と、真鍋は容易く言ってくれる。 「っ、そんなこと、出来るわけ…っ」 何を馬鹿な。 火宮にとってあなたがどれほど大切な人間か。 そして俺にとってもあなたがどれだけ大切な人であるのか。 あなたは分かっているのか。 無理な選択肢を提示する真鍋に、くしゃりと顔を歪めたとき、またもダァンッ!と耳をつんざく銃声が響き渡った。 「ぐ、ぅ…っ」 今度は脇腹を撃たれたのか。 真鍋が苦しげな呻き声を漏らしてガクリと上半身を折り曲げる。 その左腹からジワリと鮮血が滲み出す。 『勝手な発言は許していないよ。ほら、翼。どうする?このままだと、幹部様、死んじゃうよ?』 「それでも構いませんっ、翼さん。あなたは会長のもとを決してお離れになられてはいけませんっ。私は、いつでも会長のため、この命を捨てる覚悟は出来ておりま…うぐっ」 ゴリ、と抉るよに、真鍋の腹の傷の上に、真鍋に銃を突き付けていた黒服の男の銃口がめり込んだ。 いつものクールな顔を苦悶の表情に歪め、真鍋はそれでもブンブンと首を振っていた。 「翼さんっ、どうか…」 「真鍋さん…」 ぎゅぅぅ、と握り締めた拳が、力を入れすぎて白くなっていた。 どうする。どうすれば。 異常すぎる状況の中、グルグルと回る思考が必死で答えを探し出す。 けれども冷静さを保てない頭の中で、導き出すべき答えが見つからない。 「真鍋さん…」 俺は、どうしたら…。 ぎゅっと唇を噛み締めた俺は、必死で考える。 真鍋を犠牲にして、俺は火宮の元に帰る。 真鍋には、火宮のため、俺を無事に帰らせて、自らの生を閉じる覚悟がある。 火宮が望むのは。 俺がすべきは。 真鍋の望みは。 そして明貴の要求は…。 ぐちゃぐちゃになりそうな思考の渦の中、真っ直ぐに見つめた明貴の口元が、ゆっくりと次の言葉を形作っていくのが見えた。 『おいで、翼。大丈夫、火宮よりもずっと、私が愛してあげるから』 にこり。 それはそれは美しく、うっとりと微笑んだ明貴に、俺は急激に、スゥッと冴え渡っていく脳内を感じていた。 明貴と、行く…? 俺の答えにすべての命運が掛かっている。 その多大なるプレッシャーが、逆に俺をこの上ないほど冷静にさせた。

ともだちにシェアしよう!