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第605話
*
ひたり、と目の前の窓ガラスに触れた手のひらに、切ないほどの冷たさが伝わった。
キラキラと眼下に煌めく街の明かりは、まるで宝石箱のように美しく輝いている。
ぼんやりとその景色を眺めていた俺の目に、じわりと別の情景が映し出された。
「ッーー!翼さんっ」
あの時。
悲痛な真鍋の叫びは、俺の目の前で掠れて消えていった。
振り切るように明貴に縋りつき、真鍋の傷口の手当てを希う自らの声が蘇る。
にこりと俺の選択を褒めてくれた明貴は、すぐさまその願いに応じてくれた。
無事に真鍋の銃創は手当てがなされ、引きずられるようにして、真鍋はあの部屋を連れ出され、そうして火宮の元に返された。
きちんと返したという証は、真鍋につけられた盗聴器と発信機、そしてご丁寧にも蒼羽会事務所で池田たちに迎えられる真鍋の写真を撮って見せてくれるまでして確認させてくれた。
「よかった」
あの有能な人を、亡くすことがなくて。
「よかった…」
無事、とはいかなかったけれど、なんとか火宮の元に返すことができて。
ホゥッと吐き出した安堵の溜息とともに、きゅぅ、と両手を握り締めた。
その左手の薬指には、最後の拠り所が残ってる。
「俺は、折れてない。折れてない」
自らに言い聞かせるように繰り返し、誓いのようにその銀色のリングに口づける。
こつん、と大きな窓に額を押し当て、ぎゅっと固く目を瞑った、そのとき。
かたりと小さな物音がして、背後に気配が1つ湧いた。
『翼』
『っ…』
ふわりと名を呼ぶその声は、あの後俺をこのホテルに連れてきた明貴のものだ。
穏やかな笑みを口元にたたえた、優しそうな美しい人が、綺麗なオッドアイを柔らかく細めてこちらを見ている。
けれども本当は凍えるように残酷で、恐ろしい人。
ゆっくりと、窓から手を離し、後ろを振り返った俺を、迎えるように両手を広げた。
『連さん』
にこり、と微笑もうとした顔は、失敗してくしゃりと歪んだ。
それでも俺の両足は明貴の要求に応え、ゆるりとそちらへ歩いて行く。
『ただいま、翼』
鮮やかな微笑みが、とすんと腕の中に納まった俺に向けられた。
ふわり、と髪を撫でてくる手に、黙って身を委ねる。
けれどもきゅっと軽くハグをされた瞬間、身体はギクリと反射的に強張った。
『ふふ、まだそう警戒しているの?』
寂しいね、と笑う明貴にドキリとする。
『きみに危害を加えるつもりはないと、何度言えば分かってもらえるかな』
ぽんぽんと、幼い子供をあやすように、何度も頭を撫でられて、俺はくしゃりと俯いた。
『すみません…』
ぽろりと零れる謝罪の言葉は、上っ面の社交辞令でしかない。
引き攣る顔は、どうしたって恐怖が拭えない、この人の本当の顔を俺は知っているせいだから。
『まぁ、無理もないか』
『……』
『私はきみの目の前で、きみの大切な幹部様を撃ったんだものね』
クスクスと笑い声を立てながら紡がれる明貴の言葉に、俺はぐにゃりと眉を寄せるしかなかった。
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