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第607話

ひゅっ、と喉に息が絡まって、微かな音を立てた。 そんな俺を、明貴はさも可笑しそうに、緩やかに目を細めて見つめてくる。 たらり、と背を伝った冷や汗を、俺は困惑と焦燥とともに感じていた。 『クスクス、翼。だからきみは、幹部様に、あんなことを言った』 『っ、連さっ…』 『だから翼、きみはこの指輪を決して自ら外すことはなかった』 ひくん、と喉が引き攣り、無様な音が鳴る。 明貴は、うっそりと目を細めたまま、ゆるりと顎を上げ、俺を見下ろすように胸を反らせた。 『さすがだ、翼。さすがは、私が心底気に入った、賢く、しなやかで、強かな子猫』 『っ…』 『火宮が私と…我々の組織とやり合うためには、せめて七重組の理事、そして私と対等に取り引きができる、繋ぎ役の立場になる他ない』 『れんさ…』 『無抵抗に手放すしかなかったきみを取り戻し、傷つけられた幹部様の報復をしにくるためには、のらりくらりと避けている、七重組理事の座を、全力で取りにいくしかないんだ』 『連さんっ…』 『だからきみは、ここにいる。きみが私を選ぶしかなかったのは、おまえに力がないからだと、火宮を責めて、その尻を叩くために』 『っあ…』 『力を持てと。おまえはまだまだ上へ行ける人間だろう?と。その身を、賭して』 にっ、と口角を持ち上げた、明貴の唇からチロリと赤い舌が覗く。 艶めかしいその舌先が、俺の…俺たちの誓いのリングをペロリと舐めて、壮絶な笑みを唇の上に形作った。 『っ…』 ぞくり、と感じたのは、明貴の底の知れない圧倒的な存在感と、壮絶な色香に対してだ。 あぁこの男もまた、絶対的王者である。 本能が、ぞわりと震えてそれを教えてくれる。 『れ、ん、さ…』 『ふふ、きみはとても賢い。眩しいほどに、賢く強かだ』 『っ…』 『だけど、同時にとても愚かだね』 『え…?』 にやり、と意地の悪さを前面に出して、口角を上げる明貴の表情に、俺はぴしりと固まった。 『まさかその思いが、本当に正確に火宮に伝わると思っているの?』 『それはっ…』 『きみが託したあの言葉を、幹部様は間違いなく受け取って、そうして火宮がそれを分かってくれると、きみは本気で信じているの?』 『っ…』 当たり前だ。 俺と、真鍋と、火宮の間を結ぶ信頼は、それくらいの芸当、きっと容易くやってみせる。 ぎゅっと唇を噛み締めた俺をどう受け取ったのか。 明貴の目がスゥッと鋭さを増して、その口元が鮮やかに弧を描いた。 『子供だな。とても子供で、綺麗ごとだ』 『そんなことっ…』 『ない、と言い切れる?なるほど、面白い。とても面白いよ、翼』 『っ…』 にやりと笑う明貴を、俺は知らず知らずのうちに、キッと睨みつけていた。 『ふふ、いい目だね。ならばそれが本当かどうか、確かめてあげよう』 『連さん?』 『火宮が本当に、きみのその気高い心意気と強い精神に、応えてくれる男かどうなのか』 『っあ…』 『きみが、身を賭けて信じる火宮のその力』 『連さ…』 『じっくりと、見物させてもらうよ』 ぶわっと鮮やかに微笑む明貴に、俺はくしゃりと顔を歪めた。 『私は、七重組の理事が決まり、劉が新理事と顔合わせと挨拶をするまでは日本に滞在する』 『連さん…?』 『その日、劉の元に来るのが火宮なら、きみの言葉と行動の正しさは証明されるだろう』 『っ…』 『けれどももしも、もしも火宮が、きみがそれだけの覚悟と心意気を見せる精神を持つ傍らで、それでもなお、上へ行くことを拒んだら』 『っ!』 に、いっ、と、明貴の目が、俺を真っ直ぐに捉えて、キラリと美しく、その左右違う瞳の色を光らせた。 『そのときこそきみは、私のものだ』 『っ…』 『大丈夫、火宮に裏切られ、絶望するきみを、私が大切に慈しんであげよう』 『連さっ…』 『ふふ、だからきみは、ただ信じていればいい。火宮が、大切なものを失わないために、本気を出して権力を掴みに行ってくれることを』 『っ、あ、ぁ…』 『大切なものを守り、それを手の中に留めるためには、力がなければならないと、行動してくれることを』 『っ、ん…』 『それまでこれは人質…ならぬもの質だ』 ふわりと艶やかに微笑んだ明貴の目が、ゆっくりとその手の中の俺たちの誓いのリングに落ちていった。 『せいぜい足掻くがいい。そして、信じていればいい』 『っ…』 『そうしてその日、期待を裏切られて絶望に打ちひしがれるきみを、私はここから攫っていくよ。火宮に捧げる信頼も愛も、全てを打ち砕かれ、私の手を取るしかなくなるのは、きみだ、翼』 『れ、んさ…』 『全てを失ったきみを、私は大切に愛してあげる。きみの全霊を手に入れ、きみが身を委ねるのは、私だ』 ふふ、と悪戯っぽく笑う明貴の声には何故か、刺々しい言葉に比例するはずの悪意がまったく感じられなかった。 『覚悟しておいで。その日、私はきみの、すべてを奪い去る』 ふわりと微笑む明貴の顔が、何故かどこか寂しく、苦しそうに見えたのはなんだったのだろう。

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