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第608話

そうして、明貴から軟禁を受け、3日が経った。 その間、明貴に感じる小さな違和感が、ゆっくりと色濃くなっていった。 『翼、食事だよ』 ふわりと微笑む明貴に差し出される手を取れば、明貴は大切な客人をもてなすかのように丁寧に、俺を豪華なダイニングテーブルにエスコートしてくれた。 明貴が俺を軟禁しているホテルの1室、広いダイニングのテーブルには、毎食毎食これでもかというほど豪華な食事が用意される。 『ありがとうございます、アキさん』 命じられた通り、にこりと笑って礼を述べれば、明貴の空気が嬉しそうに揺れた。 違和感の正体の1つはこれだ。明貴はあの日、俺の指からその指輪を奪い去ったあの後に、俺に自らを「アキ」と呼ぶことを課した。 そうしてその要求に素直に従えば、こうしていつも嬉しそうに顔を綻ばせるのだ。 『いい子だね』 ふわりと褒めるように俺の頭を撫でていった明貴が、自席に回っていく。 広いテーブルの端と端。 向かい合って座る俺たちの他に、食事の席に着く者はいない。 『今日はきみの好物ばかりだ。だよね?翼』 得意そうにテーブルに並んだ料理を示す明貴に、俺はコクリと頷いた。 まぁどこまで無駄に近い諜報能力を発揮してくれるのか。 ここに来てから、俺たちの食卓に並ぶ料理には、俺の苦手が一切含まれていない好物ばかりの品々だった。 『さぁ、食べよう。どれでも、好きなものを、好きなだけ』 にこりと微笑み、ナイフとフォークを優雅に取り上げる明貴に、俺は小さく「いただきます」と告げて、同じくナイフとフォークを手にする。 明貴の傍らには、常に左右に2人、黒服の部下らしき人間が佇んでいた。 『翼?』 ぎゅっと眉を寄せ、不審な顔でもしてしまっていたのだろうか。 パクリとひと口、前菜を口に入れた明貴が、ゆるりと首を傾げる。 『え?あ、なんでも、ないです…』 ハッと慌てて目の前のテーブルを見回せば、なるほど、じゅわりと唾液が口内に溢れるくらい、美味しそうな料理が所狭しと並んでいた。 『ん、あ、美味しい』 マナーになど捕らわれず、いきなりメインの肉料理に手を出した俺は、口の中に広がる肉の旨味にへらりと頬を緩ませる。 『クスクス、きみのその、美味しいものを食べたときの幸せそうな顔。好きだなぁ』 『あ、アキさんっ?』 『ますます美味しいものを食べさせてあげたくなるよね』 クスクスと、心底楽しそうな笑い声を上げながら、明貴は様になった姿で、悠然と食事を進めていった。 『ふふ、食事の後は、デザートだ』 豪華なディナーの後。出された料理を見事に平らげた俺は、明貴にエスコートされ、今度はリビングのソファセットの上にいた。 目の前のローテーブルには、美味しそうなロールケーキが1つ。 そして何故か俺は明貴の膝の上に乗せられて、フォークは明貴の手の中にあった。 『あ、の、アキさん…?』 これは一体どういう状況なのだろう。 綺麗に切り取られて、あーんと言わんばかりに口元に突き出されるロールケーキを見れば、その意図は一目瞭然なのだけど。 『ん?ほら、食べないの?』 ぐい、と唇に押し付けられるロールケーキに、くしゃりと顔が歪む。 『翼?』 『っ…』 反射的に嫌だと、恥ずかしいと顔を背ければ、明貴が「困った子だ」と言わんばかりに、小さな苦笑を漏らした。 『あ…』 怒らせたか?と思って、ぎくりと身が竦む。 けれども明貴はポンポンと俺の頭を空いている片手で撫でて、「仕方ないなぁ」と、流暢な英語で呟いた。 『ア、キ、さん?』 『ふふ、だから、そんなに怯えなくても大丈夫だよ。私がきみに危害を加える素振りを見せたためしが、1度でもあったかい?』 こてん、と首を傾げる明貴は、かつて「アキ」と名乗っていた頃の、無邪気な顔をしていて。 『いえ…』 そしてさらには、明貴はここ3日間、俺と過ごす間は、武器を何一つ持っていない丸腰だった。 『っ…』 おずおずと口を開き、そっと明貴が差し出すロールケーキを口内に迎え入れれば、明貴はとても嬉しそうにその綺麗なオッドアイを笑みの形にした。 『どう?美味しい?』 『は、い…』 こくりと頷けば、「いい子」と再び頭を撫でられる。 穏やかで温かな時間。 まるで恋人同士が戯れ合っているかのような。 けれどもどうしようもなく目に入る。明貴の手でリングを奪い去られた、何もなくなった薬指が。 『っ、ん…』 くしゃりと顔を歪めて、ぎゅっと眉を寄せてしまった俺をどう捉えたのだろう。 『翼』 駄目だよ、と言わんばかりに、チュッと額に軽くキスを落としてきた明貴に、ピクンと身体が強張ってしまった。 『ア、キ、さん…?』 『ふふ、悪い子。おしおきだ』 クスッと笑った明貴が、カチャンとロールケーキの皿にフォークを下ろし、指先でぬるりとロールケーキの生クリームを掬う。 『っ!』 それをぺちゃりと自らの鼻先につけた明貴が、にこりと悪戯っぽく微笑んだ。 『舐めて』 すっ、と突き出された生クリームのついた鼻先に、びくっと反射的に身を仰け反らせる。 『翼?』 できない?と薄く目を細めた明貴の、その左右違う色の瞳の奥に、どこか冷酷な光を見出して、俺はぎくりとしながら、ソロソロと舌を差し出した。 『ん、っ…』 ぴちゃり、といやらしく水音が上がる。 そっと触れた明貴の鼻先から、じわりと甘さが舌に広がっていった。 『ふふ、いい子』 完全に舐め取りきれなかった生クリームをひょいと指で拭って、明貴が満足そうに頬を緩ませる。 それはまるで、俺を愛おしいと語っているみたいだ。 『っ、アキさん…』 『ふふ、好きだよ、翼、きみが好きだ』 『っ、アキさんっ』 『早くおいで、私の元に。早く落ちておいで、私の手の中に。火宮を見限り、私のものにおなり』 ふわり、ふわりと髪を撫で、あまりに優しく、愛おしむように囁かれる。 頭の芯を痺れさせるような柔らかな声音が、するりと耳に忍び込む。 「どう、して…」 この人ならば。それこそ今すぐにでも、火宮を消し去り、俺を強引に自国へ連れ去ることなど容易いだろうに。 どうして…? きっとわざわざ待つ必要なんてない。 この人にはそれだけの力と、行動力と、組織がその手にあるのだから。 なのにどうして…。 疑問は尽きず、感じ続ける違和感の色がますますその濃さを増す。 『翼?』 ぽつりと零れてしまっていたのが日本語だったと、怪訝な顔の明貴に気づいた俺は、「なんでもない」と小さく首を振った。

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