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第609話

じりじりと、見せかけだけは平穏で平和な時間が、悪戯に過ぎていく。 明貴に軟禁され始め、何日が経っただろうか。 『ただいま、翼』 今日も今日とて、朝食後にふらりと出掛けて行った明貴が、昼近くになってふらりと帰ってきた。 俺はこのホテルの室内から1歩も出してもらえることはなく、ぼんやりと過ごしていたリビングのソファから、すっと立ち上がった。 『お帰りなさい』 リビングのドアの前まで行って、入ってきた明貴から、鞄と脱いだジャケットを受け取る。 自然にそれを手にした俺に、明貴がクスッと可笑しそうな笑い声を上げた。 『え?』 『ふふ、奥さんみたい』 にこりと目を弓の形にする明貴に、カッと頭が熱くなる。 『や、めて、ください…』 『ふふ、怒った?まだ早かったか』 先走り過ぎた、と笑う明貴に悪びれた様子はなく、弧を描いたままの目は、ただ楽しそうに俺を見ていた。 『ところで、お昼はまだ?』 ちらりと明貴が目を向ける先は、ダイニングの方で。 『あ、はい。まだこれからです』 さっき、明貴の部下だろう人が、サンドイッチとかの軽食を、ダイニングテーブルにセットしていったのは目の端でぼんやりと捉えていた。 『ふふ、じゃぁよかった。一緒に食べようか』 にこりと笑って俺を誘う明貴に、俺は大人しく従う。 明貴に連れられて向かったダイニングに足を踏み入れたとき、不意に明貴が振り返った。 『そうだ。そのときついでに、いいものを見せてあげるよ』 ふふ、と悪戯っぽく笑ってウインクをしてみせる明貴に、小さく首を傾ける。 『きみの愛しの火宮刃。それから、蒼羽会と幹部様たちの情報』 『っ!』 クスッと笑って、スッと大きめの茶封筒をどこからともなく取り出した明貴に、ヒュッと吐息が喉に絡まった。 『あ、あ、あ…』 『あーあ、その反応』 まったく、悔しい、と嘯いているけれど、その目は心底楽しそうに微笑んでいて。 『まぁまぁ、まずは落ち着いて』 先にお昼だよ、と席につくことを促され、俺は一瞬たりとも茶封筒から目を離せずに、手探りでストンと椅子に腰を下ろした。 『クスクス、今日はサンドイッチか。翼、コーヒーは飲める?』 スッといつの間にやら、明貴の左右には、知らぬ間に護衛の男の人が佇んでいた。 『あ、飲め、ます、けど』 『カフェオレのほうがいいかな』 『っん、はい』 茶封筒を睨み据えたまま、半ば上の空でコクンと頷けば、明貴はさも楽しそうに、ゆっくりと封筒をテーブルの端に置いて見せた。 『待て、だよ?翼』 『っ…』 その物言いに、俺は犬か!と、一瞬反抗心が湧き上がる。 『それともどうする?媚びてねだって、昼食よりも先に見せてもらえるように私にお願いしてみるかい?』 それも見ものだけど、と揶揄う明貴の様子がありありと分かって、俺はぎゅっと唇を噛み締めて、思い切って封筒から視線を引き剥がした。 『ふふ、さすがは気高い子猫か。そう簡単に膝を折ってはくれない』 『っ、アキさんっ』 『あははっ、安心して。食事が済んだらちゃんと見せてあげるから。約束する』 明貴の目には、俺がフーフーと毛を逆立てている子猫くらいにしか映っていないのだろう。 完全に明貴の手の中で転がされているのを感じた。 けれども、見たいものは見たい。知りたいものは知りたいんだ。 『分かりました、いただきます』 ならば俺が打つ手は1つ。 行儀が悪いとか品がないとか思われても言われても構わない。 とにかく目の前に出されたサンドウィッチを素手で掴んでバクバクと口の中に押し込み、いつの間にか提供されていたカフェオレで喉に流し込む。 『ふ、はははっ。翼、きみ』 『んぐ…んんっ』 何が可笑しいのか、ケラケラと笑う無邪気な明貴の声が降って来る。 『子猫じゃなくて、ハムスター?』 『んあ?んぐ、むっ』 天敵同士じゃない、と笑う明貴は、なるほど、このパンパンになってしまった頬っぺたのことを言っているのか。 あまりに口の中にサンドウィッチを詰め込み過ぎて、咀嚼に精一杯な俺は、何の言葉も返せない。 [可愛い] 不意に、ぽつりと漏れた明貴の言葉は中国語で、俺はその単語の意味を知らない。 知らないけれど。 「クァーイ?…って、可愛い?まさか」 日本語に似た響きのそれの意味を、何故だか察してしまい。 『っ…』 ふわり、と愛おしそうに熱い視線で見つめられれば、もうどうにも目が泳いで仕方なかった。 『翼?』 『っあ…』 ふらり、と泳いだ視線が、そのまま再び封筒を捉えてピタリと止まる。 『そんなに見たいのか』 はは、と少しだけ乾いた笑いを漏らした明貴の目は、封筒の上で固まった俺の目と、すでに空になったサンドウィッチの皿を見て、へにゃりと情けなく歪んだ。

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