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第610話

『仕方がない、約束だからね』 「食事が済んだら」という約束を、明貴はきちんと守ってくれるらしかった。 と言っても食事が済んだのは俺だけで、明貴の皿にはまだ食べかけのサンドウィッチが残っている。 『あ…』 『ふふ、構わないよ。チラチラと、この封筒に気を取られている翼と食事中の会話を楽しもうとしても無理そうだから』 『っ、ごめ、なさ…』 『気にしなくていい。分かっていて餌をちらつかせてしまった私のミスだ』 どうぞ、と、テーブルの上の茶封筒を、明貴がスーッと俺の方に滑らせてきた。 『っ!』 パシッとそれを叩き止めて、俺はそっとそれを持ち上げる。 もつれる指先を必死で動かし、封のされていない封筒の折り目をすいと持ち上げれば、ばさりと中から出てきたのは、そこそこ厚みのあるクリップ止めの書類の束だった。 さっそくその中身に目を通し始めた俺は、そこに目にする知っている者の名前とその内容を、必死で追いかけた。 『っあ、ま、なべ、さん…』 まず最初に、真鍋の手当ての記録が目に入った。 火宮が撃たれた時、そして俺が薬に苦しめられた際にお世話になったあのお抱え医師の治療記録だ。 日付は俺がここに拉致されてきたあの日。その当日に真鍋はきちんと治療を受け、無事に退院したことがきちんと書かれている。 『あぁ、あの幹部様。だから、重傷なんて負わせていないって言ったでしょう?まぁ、当日手術して、当日に退院しているのは、さすがに化け物か、って思っちゃうけど』 銃創を甘く見ているのかな?と笑う明貴は、自分がしたことも、その結果にも、なんの罪悪感も持たずに受け止めているらしい。 カッと一瞬頭に血が上るのを、どうしようもなかった。 『あなたがっ…』 ぐしゃ、と手の中で書類に皺が寄る。 明貴は、その俺の激情を、ふわりと微笑んで何の感慨もなく受け止めている。 『っ…』 あぁ、この人は憎まれ慣れている。 人から憎しみを受けることなど、なんとも思わないんだ。 そう認識した途端、ふらりと力が抜けた。 『翼?』 『いえ。なんでもありません…』 皺が寄ってしまった書類をそっと伸ばして、俺は続きに目を通した。 『っ、これ…』 ぴくり、と目の端が震えたのは、中々に衝撃的な情報が視界に入ってきたからだった。 『ふふ、その幹部様?本当にねぇ、随分とやり手らしい』 クスクスと笑う明貴は、すでにこの報告書には目を通し終えているのか。 俺がどの記事を読み、どんな情報を得ているのかを正確に分かっているらしい。 『っ、沖嶋組…』 『やっぱり潰れたでしょう?まぁ当然だよ。随分と姑息なちょっかいを、蒼羽会に掛けていたようだからね』 『下の方の人を逮捕させたり、襲って怪我させたり…』 『ふふ、本当、スマートに1組織をぶっ潰せてる。手負いの状態で、よくやる。さすがは蒼羽会のナンバー2』 『っ…』 『綺麗に西から上がってきた組織の方も片をつけてね。鮮やかだ』 手放しに真鍋を褒める明貴は、分かっているのか。 その蒼羽会にとって大切なその人を撃ったのは、紛れもなく自分だということを。 『結局あの日に帰してすぐ、盗聴器にも発信機にも気付かれてしまったしね。たまらなく有能だよ。うちに欲しくなってきたなぁ』 どの口がそれを言うか。 それに、その状態でもこれだけの情報を入手できる、明貴の持つ諜報力にはゾッとする。 『そうだ。翼が私と国に帰るとき、ついでにこの幹部様も連れて行こうか』 それがいい、と、ぽん、と手を叩くような気軽さで言う明貴に、クラリと眩暈がした。 『ふふ、だけど』 『っ…』 スィッと目を細めて、続きを、と言わんばかりに俺の手元を見つめて促す明貴に、俺は流されるままその先に目を通した。 『あ…』 火宮の名が、そこには書かれていた。 理事選にやる気になり、票集めを始めたこと。 沖嶋を倒したことを宣戦布告とし、狭霧と真っ向勝負に出ることにしたこと。 地固めを始め、本気を出して、理事の席を掴みに動き出したこと。 『火宮さん…』 あぁ、あぁやっぱりこの人は。 すでに手中に収めた票数。手駒にした下部組織たち。 後ろ盾となることを確約させた役員たち。 それは、勝利が予想できるだけの数と、質を示していて。 『勝っちゃうかな。掴んじゃいそうだね、理事の椅子』 ふふ、と楽しそうに笑い声を上げる明貴は、何故かとても楽しそうに、何故だかそれを、歓迎しているようにしか見えなくて。 『アキさん…?』 ポツリと落ちた声が、頼りなく掠れて小さく震えた。

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