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第613話
*
ごくり、と喉が鳴る音が、やけに大きく耳についた。
ピリピリとした緊張感が支配する、豪奢なホテルの1室に、役者はすべて揃っていた。
先ほどまでは、この室内には俺と明貴と護衛だけ。
隣の部屋に…劉のもとに、七重組新事務局長であり、六合会とのパイプ役を引き継いだ男が、挨拶に来ていると聞かされていた。
それはきっと火宮である。
99パーセントの確信のもとに、そう信じていたけれど。
残りの1パーセントが、もしかして、という恐怖を拭い切れなかった。
ドキドキと跳ね上がる鼓動がうるさい中、こちらの部屋の扉が開くのを、今か今かと待っていた。
そうして、ガチャリと開いたドアの向こう。劉が先導して、その後ろから姿を現したのは。
「っ…」
あぁ、火宮だ。
1週間と少しぶりの、火宮さんだ。
室内中央、玉座と見紛うばかりの豪奢な椅子に腰掛けた、黒髪オッドアイの冷たい相貌を持つ男の隣で、俺はホゥとなんとも分からない吐息をこぼした。
その俺の隣には、護衛兼見張りという建て前の、黒服黒髪黒目の男がピタリと立っている。
ゆっくりと、椅子に座る男を見つめ、そうして俺の方へと流されてきた火宮の視線に、俺は泣き出しそうな思いをぎゅっと堪えた。
火宮さん…。
ジッと見返した火宮の顔は、特にこれといった表情を作らない。
その双眸も、冷たく冴えたまま、僅かも緩むことはない。
あぁ、蒼羽会会長、火宮刃の顔だ。
そうわかる表情に、俺はそっと、そっと息をつく。
だけど少しやつれた?
精悍さがさらに深みを増したような、変わりない美貌に影を落とす微かな疲労の色が見て取れる。
唇がかさつき、髪の艶がわずかにくすんでいるような気もする。
あぁ…っ。
その原因がなんなのか。何がこの男をこんな姿にしたのか。
分かり過ぎるほどよく分かっている俺は、たまらず口元を歪めていた。
けれどその分だけ、この男の凄みは増していて。
ーーつばさ
声なき声で、火宮の口元が確かに、その1つの固有名詞を形作ったのが分かった。
「っ…」
ひゅっ、と喉に吐息が絡まる。
今すぐに、この床を蹴って、その胸に飛び込みたい。
衝動が心を震わせ、けれども俺の頭はどこまでも冷静に、そんな火宮の姿を、ただじっと見つめ返すだけに留めた。
ゆらり、と、そんな火宮のすぐ右後ろで、ブラックスーツの影が動く。
「あ…」
火宮の姿にばかり目がいって、気づいていなかったけれど、そこには当たり前のように真鍋がいて。
よかった。無事だ。無事に生きてる。
不自由そうに片手で杖をついて立ってはいるものの、見慣れたクールな美貌をわずかも崩すことなく、真鍋は冷然とそこに佇んでいた。
けれどもその姿に、1つだけ疑問が生じる。
って、腕の包帯が増えてるっ…。
骨折した人がよくしているように、首から三角巾で吊られた腕。
よく見れば確かにその隙間から、ギプスらしきものが見える。
しかも利き腕…。
まったく鬼だなぁ、と思うのと同時に、もしかしたらそれが優しさだったのかもしれないとどこかで思う。
ヤクザ社会のケジメだとか、制裁だとかには、俺は未だに慣れることはない。
けれどそれは火宮が住む世界のルールで、その隣に立つと決めた俺に、むやみに口を出したり制止したりする権利はない。
そのしきたりがあるのは分かっている。そして真鍋もきっと、それで救われる部分が少なからずある。
だからきっと火宮は与えた。
この人は、実は情が深い。
そして、杖を扱う方ではない腕。それがたまたま利き腕だったけど。そこにもまた、火宮の気遣いが、少しだけ見て取れたような気がした。
「ただ、両腕が自由に使えない護衛なんて、役に立たないと思うんだけど…」
なんで連れてきた、と思わず呟いてしまう俺の声を、隣に佇む黒服黒髪黒目の男が聞き咎めた。
『それこそが、これから始まる最後の一幕のための理由だよ』
クスッと笑った隣の黒服黒髪黒目の男が、みんなの視線を掻い潜って、悪戯っぽく俺にウインクしてみせた。
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