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第615話
「ほぉ?」
スゥッと薄く目を眇めた火宮が、足元に転がされたリングを見下ろす。
その瞳は冷え冷えとしていて、ぞくりと湧き上がる寒気を抑えきれなかった。
「っ…」
責める声色。冷たいオーラが、火宮から突き刺さるような気がした。
そうだ。俺は、どんな理由があったにせよ、火宮の元に真鍋1人を帰らせて、明貴の元に留まることを選んだ。
外された指輪は、「明貴を選んだ」ということの、何よりの証だ。
言い訳も、否定の言葉も許されない。
俺は、「違う」と漏れそうになる声を強く飲み込んで、ぎゅぅっと唇を噛み締めた。
「ククッ」
不意に、火宮が可笑しそうに喉を鳴らし、スッと身を屈めて足元のリングを拾い上げた。
「本意ではない」
「え…?」
「無理矢理選ばされて、連の手で外された。そう解釈していいか?」
ククッ、と喉を鳴らしながら、火宮がゆっくりと指輪を目の高さに掲げた。
「っ…」
こ、の、人は…。
こんな風に銃口に囲まれ、ただ1人の味方とたった1つの武器しかない中で、どこまでも余裕綽々で、どこまでも堂々としていて。
「翼?」
ニヤリと笑う、冷静な、そして際限なく俺の深層を見透かすその視線が、たまらなく心を震わせた。
「っ…」
操られたかのように、コクリと頭が上下する。
ゴリ、と、背中に当てられた銃が、押し付けられる強さを増した。
「っ…」
「俺の翼に、無体はやめて貰おう」
ギロッと明貴を睨んだ火宮が、小声で真鍋を呼ぶ。
「はい」
静かに懐に手を入れた真鍋が、スッと厚みのある茶封筒を取り出し、それをふらりとした足取りで、明貴の方へと差し出しに行った。
「なに?」
「見ればわかる」
冷たい火宮の言葉に、明貴がひょいっと肩を竦める。
ジッと火宮の意図を探るように視線を向けたまま、明貴は真鍋から受け取った封筒の中身を取り出した。
「っ!」
出された書類を一瞥した明貴の顔色が、サッと変わった。
ぴくりと震えた背中の銃が、明貴の動揺を十分に伝えている。
「これは」
じくり、とした低い声を唸らせた明貴が、短く「劉」と呼び、それに従った劉が明貴からその書類を受け取り、ゆっくりと眉を寄せた。
「ククッ、随分と楽しいお仲間をお持ちのようだ」
ニヤリ、と頬を持ち上げる火宮は、まるで絶対的な王者のようで。
多数の銃口を向けられ、多勢に無勢のこの状況なのに、その威厳と場の支配権を1歩も譲っていない。
「どうやって調べた」
「ふっ、諜報力がいつもそちらが上だと思ってもらっては困るな。ここは、日本だ」
ホームグラウンドにはホームグラウンドのやり方がある。
悠然と、明貴を見下すように告げる火宮に、劉がギリッと歯を軋ませた。
「貴様…」
「クッ、あなたたちは、欲を掻きすぎた」
ニィッと口角を上げて楽しげに告げる火宮が、ゆっくりと俺に視線を合わせる。
「理事選に間接介入のついでに、ここ最近不穏な動きをしている中国黒幇の下部組織の、協定違反の尻尾をあわよくば掴み、潰そうという目的も、秘密裏に持ってきていたな?」
「っ、そこまで…」
「あぁ、調べがついているさ。うちの諜報力を侮らないでもらいたい」
「くっ…」
「それだけの仕事を抱える傍らで、俺のイロの略奪まで企んだんだ。ただでさえ必要最低限の人数しか入国させていないあなたたちは、いささか分が悪かった」
ククッと笑い声を上げる火宮に、劉の手の中でくしゃりと書類が音を立てた。
[それで]
唸るような劉の言葉は、苛立ちのあまりか、知らず知らずのうちに中国語になっていて。
[ふっ、そちらのその下部組織が日本で七重 を通さない勝手な取引先開拓、重大な協定違反の落とし前に、1本]
ニヤリと笑う火宮の言葉も中国語に変わり、銃を持たない方の火宮の手が、人差し指をさっと立てて見せた。
[くっ…日本円でか]
[あぁ、日本円で1億。それから、その下部組織が開拓しようとしていた、日本の組はな、七重 とは系列違いの組織でな、そこには、公安のイヌが潜入している]
[っ!まさか]
[確かな情報だ。さぁどうする。公安に見張られている組織に、よりにもよって交易を持ち掛けたんだ。あなたたちが表立ってそのルートを潰しに掛かれば、こちらにも火の粉が飛んできかねない]
ふん、と鼻を鳴らす火宮の言葉は、俺には聞き取れない。
だけどそれはきっと、俺には聞かせなくていい、ヤクザの世界の話なんだろう。
動揺している劉とは違って、火宮は冷静だ。意図的に中国語を話していると思っていいはず。
うーん、と、俺の後ろで何事かを思案しながら銃口を揺らしている明貴の様子からも、それが理解できる。
「連明貴」
ゆるりと口元を持ち上げて、目を薄く眇めた火宮の声に、明貴がクスッと笑った声が後ろから聞こえた。
「アキさん…?」
「ふふ、なるほど、これが、火宮刃の実力か」
参った、と笑う明貴が、ふわりと俺の後ろから顔だけを火宮たちの方へ覗かせる。
「つまりは?」
「仕方がない。取り引きの余地がある、いや、取り引きするしかないようだね」
クスクスと笑う明貴の軽やかな声に、俺はパッと後を振り返っていた。
「アキさん?」
「あはは。きみが1度は選んだ男は、さすがとしか言いようがない」
「え?」
「で?そちらの条件は、火宮翼の返却か」
「当然」
スッと笑顔を引き締め、火宮に向き直った明貴の言葉に、火宮が悠然と首を縦に振った。
「翼を返せば、1億の落とし前はチャラ、日本側の組と公安は、蒼羽会もしくは七重組が上手く処理してくれるというわけだ」
「ついでに、うちのシマで好き勝手なことをしようとしてくれたそちらの国の雑魚どもの身柄を…」
「まさか、そんなやつらまで確保してあると?」
「ククッ、そのまさかだ。その身柄もくれてやると言ったら?」
ニヤリ、と唇の端を持ち上げた火宮の、完全勝利だった。
「呑む以外にないな。まさか、理事選の傍らで、そこまでのことをこなしていたとは」
「ククッ、おまえたちが、2兎とも3兎も追っている間にな。俺が追っていたのは、ただ1つだからだ」
「火宮翼」
「あぁ。俺の目的は、ただその1つのみ」
悠然と胸を張る火宮に、明貴が適うはずがなかった。
俺が望んだ強さが、俺が欲した強さが、やっぱりこの愛おしい人にはあった。
誰よりも俺のため、そう、俺のために引く道じゃなく、俺のために強くなる道を選んでくれた、これが俺の愛した人だ。
俺が傍らにいることで、決して弱くなどさせない。俺が傍らにいるから、この人はどこまでだって強くなれる。
「証明してあげましたよ?」
ねぇ火宮さん。ねぇ真鍋さん。
「ねぇ、アキさん」
傲慢な考えだけど。自意識過剰で、自信過多と言われるかもしれないけれど。
だけど、これが火宮翼で、これが火宮刃だ。
俺たちの在り方だ。
ゆっくりと、後を振り返って、明貴に別れを告げようとした、その瞬間。
ゴリッと背中に押し当てられた銃の、撃鉄が起こされた。
その口先は、迷いなく後ろから俺の心臓の真ん中を狙っているのが分かって。
「っ、ア、キ、さん…?」
掠れた呼び声が、震える唇から小さく零れた。
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