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第617話
「っ、アキさん…」
あぁそうか、この人は。
「はぁぁっ」
あぁもう本当に、なんていうか。
「狡い、ですよ」
思わず浮かんでしまった泣き笑いを、どうしようもなく、俺は背後の明貴に向けた。
「翼?」
「まったく、もう…」
なんて狡い人。
そして、なんて哀しい人。
「俺が、引っ掛かると思いましたか?」
「っ、つばさ」
ぎくり、としながら、舌っ足らずになる明貴の様子に、俺はどうしようもなく溢れてくる思いを止められなかった。
「あなたの殺意は偽物だ」
へにゃりと崩れたこの顔は、どんな感情を映しているだろう。
きっとどうしようもなく絆された、情けない顔なんだろうなぁ、って思う。
「だから俺は、あなたを撃ったりしませんよ」
「っ、翼!」
「ふふ、無駄です。無駄なんです。俺にあなたへの傷跡を残そうとしても」
「翼っ…」
「俺にわざとあなたを撃たせるように誘導して、俺のこの手に、この心に、消えない爪痕を残そうとしたって、無駄なんです」
ふふ、と笑ってしまう顔をそのままに、俺はゆっくりと、いつの間にか解放されていた後ろ手をゆるりと持ち上げた。
「火宮さんの元に駆けていく俺に、あなたを撃った罪悪感と後悔を、あなたの影を、一生引きずるように仕向けても…俺は、撃ちませんよ?そんな身勝手なマーキング、許す俺じゃありません」
クスッと漏れた笑い声と、同時にカチリと起こした撃鉄の音が響く。
「俺は、あなたのものには、ならない」
例えその心の、ほんの1部さえも。
ゴリ、とこめかみに押し当てた銃口は、ヒヤリとするほど冷たく硬かった。
「人質は、俺です」
「翼っ!」
「翼、よせっ…」
ふふ、日本屈指のヤクザの頭と、中国黒幇頂点にいる男の、焦った声が同時に響く。
こんなの聞けるなんて、とても貴重だろう。
「痛いのと怖いのはとても苦手なんですけれどね」
にこり、と笑う顔を、火宮と明貴に順番に向ける。
「アキさん。ごめんなさい。俺が選ぶのは、いつでも、いつだって、火宮刃、ただ1人」
何度問われても、何度選ばされても、どんな手段を用いられても、それは絶対に変わらない。
揺るがない、ただ1つの真実。
「だから撃たない。俺はあなたを決して撃たない。そうして闇を知る俺を、火宮さんが厭うから」
正確に言うと、きっと悲しむ。
すでに教えられてしまった、日本では所持するだけで罰される、この武器の使用法だけでももう十分だ。
これを扱えるようになってしまった俺を、火宮がどう思うか。想像なんて簡単にできる。
「く、はっ、翼」
「アキさん、ごめんなさい。だからどうか、その銃をその場に捨てて。火宮さんたちを狙う銃口を、全部きれいさっぱり下ろさせて下さい」
じり、と足を引く俺の行動を、明貴は黙って見つめていた。
「死にますよ?俺」
これは、賭けだ。
これでも明貴が火宮を撃つというのなら、俺は俺の命をこの手で終わらせる。
共にいたいのはいつでも火宮だ。
火宮が死ぬのなら、俺もともに逝く。
これは、賭けなんだ。
明貴に残酷な答えを突きつける。
同時に十分な脅しを明貴に与える。
だって明貴はきっと、俺を殺すつもりはない。
ごくり、と喉が上下して、じわり、と銃を握る手に汗が滲んだ。
「死に、ますよ?」
じり、とまた1歩、明貴から遠ざかり、火宮の方へ近づいていく。
ジッとそんな俺を見つめていた明貴が、ゆらりと銃口を下ろし、フーッと長い息をついた。
「また、振られるのか」
はは、と笑い声を上げた明貴が、軽く腕を一振りする。
それだけの仕草で、ザッと音を立てて、火宮と真鍋を取り囲んでいた銃口が一斉に下ろされた。
「あーあ。まさか、翼の命まで賭けられてしまうなんて」
「アキさん…」
ほっと力が抜けて、ダラリとこめかみの銃が身体の横に垂れた。
「そんなに火宮?そんなに、その男がいいのか」
「えぇ、地獄の果てまで、付き合いたいと思うくらいには」
「はは、完敗ってわけか。きみは、そうまでしても、火宮を選ぶのか」
「はい」
にこりと笑ったこの顔を、明貴はどう思っているのだろう。
力なく落とされた銃が、ごろんと明貴の足元に転がった。
「はぁーっ…降参だ。火宮、なんなりと、私を好きにするがいい」
両手を上げて、無防備に身体を晒した明貴に、周囲の明貴の部下たちがざわめいた。
「先ほどの取り引きも、私が翼を渡し渋ったことでお流れだな。1億に上乗せしての落とし前、それから、そちらの雑魚と公安を、どうかいいように処理していただきたい。必要ならば、土下座をして頼もうか」
言いながら、ストンと床に膝をつく、明貴を火宮は冷たく見下ろした。
「連様っ…」
ひゅっ、と息を詰めて、焦りを見せたのは、明貴の側近の劉で。
黒幇の首領ともあろうあなたが、頭など下げるなと、必死でその身体を抱き起そうと走っている。
「劉、いいんだ。これまでの散々の無作法が、ただで済むわけがないだろう?」
これでも黒幇。その頂点に立つ明貴に、今回の件の落とし前が決して安いものではないことくらいは、よく分かっているらしかった。
「七重組新理事となった男のイロを無理やりかどわかしたんだ。その大切な右腕にも怪我を負わせ、独占協定を結ぶ取り引きの抜け駆けをしようとした組織をまんまと来日させた。さらにはそれが七重と別系列の組織で、警察にまで関する案件など…申し開きの1つもない」
ゆるく首を振る明貴を、火宮が冷然と、そして劉が困惑したまま見下ろしていた。
「私の頭1つで済むとも思わないが…」
それでもしないよりはマシだろう?と自嘲気味に笑いながら、火宮をちろりと見上げた明貴が、両手をその床につこうとしたその瞬間。
「七重組理事、蒼羽会火宮殿っ…」
ガバッと明貴と火宮の間に飛び出した劉が、流れるような日本語を大声で解き放った。
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