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第620話

ーーーーーーーーーーーーーーー 『翼。きみに、銃の扱い方を教えてあげる』 何故、と思った言葉は声にならず、ただ手渡されるまま、そのズシリとした殺傷のためだけにある武器を握り締めた。 『ねぇ、翼。私が、初めて銃を撃ったのはいつだか、わかる?』 クスクスと、どうしても震えが止まらない俺の手をそっとその手で包み込みながら、明貴が笑って小首を傾げた。 戯れに紡がれる話の意図が何なのか、わからないままに俺はフルフルと首を左右に振った。 『ふふ』 にこり、と笑った明貴が、パッと手のひらを広げて俺に向けて見せた。 『え…?』 『5歳』 『っ!』 ひゅっ、と喉に絡まった吐息が、情けない風音を立てた。 『ふふ、驚いた?もっと驚かせることを言うけどね』 『ア、キさん?』 『その時の対象は、敵対組織のボスだ』 『っ…』 ドクッと跳ねた心臓が、その軽やかに言われた言葉を全身に毒のように回らせた。 無機質な的でも、物でもない。 明貴が初めて銃を向けた相手は、人間。 そのことを理解した頭が、ガンガンと痛む。 それを知ってか知らずか明貴は、軽やかな口調のまま、楽しげにその話を続けた。 『殺せ、と言われたから、引き金を引いた』 『アキさん…』 『思ったよりも手酷い反動が腕を襲ったね。びっくりして尻もちをついて、けれども地面に倒れた男が血の海を広げていくのを見て、ホッと力が抜けた』 『っな…』 ふふ、と笑う明貴の手が、俺の震える手をそっと撫でて、愛おしむようにその手の中の銃にまで、優しい指先を走らせた。 『私はそのとき、あぁよかった、ちゃんと撃つことができた。あぁよかった、ちゃんと殺せた。そう、紛れもなく、喜んだ』 『っ!』 ひくん、と引き攣った喉が、唾液を飲み込むことさえ忘れて、ぴりりと震えて微かな痛みを呼んだ。 『対象を沈黙させた私を、周りの大人は褒めた』 『っ、あ、あ…』 『私はそれを満足とともに受け止め、人1人を上手く殺せた自分に得意になった』 『っ、あ』 『私には、なにかが欠けている』 ふわりと花が綻ぶように笑う明貴は、それがさもないことのように無邪気な顔をしていて。 『私の周りは壊れている』 『っあぁっ』 カタカタと震える手が、もう銃を握っていられなかった。 けれど明貴の手が重ねられた手は、銃から離すことができなくて。 『私は、人を撃つことになんの躊躇いもない』 『っ…』 それは、知っていた。 この間、明貴は真鍋を、なんの躊躇いもなく、あまりにあっさり傷つけた。 俺は、それを目の当たりにしていた。 『私は人を殺すことを、なんとも思わない』 ふふ、と微笑む明貴が、ぐっと俺の手を強く握り締めた。 『それができることが優秀だ。それを容易くやってのけることが誉で、逆に成し遂げられなければ、いくらでも貶められていく』 『っ…』 『周囲にいるのは、敵か、味方か。己に利のある人間か、害なす存在か。ただ、その2種類しかない』 『アキさん…』 『敵なら、害なら、殺せ。味方なら、利用しろ。そうして上り詰め、築き上げてきた今ここに、私は立っている』 クスッと微笑みを零す明貴が、どうしてか泣いている、と思ったのは、何故だろう。 明貴はこの上なく綺麗に微笑んでいる。 『ねぇ、翼は、引けない?』 『え…?』 『この引き金を、引けない?欲しいものを手に入れたいのならば、躊躇いなんて無用だよ?』 『アキさんっ…』 『私はそうしてここにいるもの。たくさんの人間を力で支配し、従え、敬われて、ここにいるもの』 ふ、と明貴が吐息をついたのと、ぐ、と俺に重ねられた手にさらなる力が込められたのは、同時だった。 ガァンッ!と耳をつんざく銃声が、俺の手元から迸る。 びくんっと感じた強い反動は、幼い明貴を転ばせたほどの威力か、そうか。 これが、銃を撃つ感覚。 思ったよりもずしりと重く、跳ね返る衝撃はとても痛い。 ジーンと痺れる指先を、俺は今度こそふらりと開いて銃から離した。 『ふ、あはは、へったくそ』 コロコロと、鈴の音が鳴るように、明貴が突然笑い転げた。 その視線の先を追ってみれば、なるほど、示された的に掠りもせず…どころか、見事なまでにその斜め上方、天井付近を撃ち抜いているではないか。 壁にめり込んだ銃弾が、パラパラと周囲の塗装を剥ぎ落としている。 『っ、アキ、さん…』 カラカラと、あっけらかんと笑っているけれど、どうしても泣き声に聞こえてしまうそれがどうしようもない。 『アキさん…』 痛いよ、とても痛いんだ。 銃を撃つということは、跳ねて返って来るその反動を、その腕1本で耐え抜くということだ。 未だ衝撃の抜けきらない手をグーパーと開いたり閉じたりしてみせて、俺はへにゃりと明貴を見つめた。 『アキさん』 あなたの出自を、俺は知らない。 『アキさん』 だけど、あなたがそうあらなければ生き抜くことができなかったことは想像ができる。 『アキさんっ…』 この人は、生まれた時からこの地位に立つことを定められ、孤独に、超然と生きてきた。 誰も信じず、誰にも心許さず、敵を蹴散らし、擦り寄る者を従え、媚びる人間を利用して。 『連、明貴…』 その偶像を崇拝され、誰にも甘えることを許されず、誰にもその本心を理解されず、ただ、黒幇最大組織の首領として、冷然とそこに立っている。 『あなたは、あなたは…っ』 ボロッと零れ落ちた温かな雫が、ポタリと痺れを残した手に触れた。

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