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第621話

ーーーーーーーーーーーーーー 「あなたは…」 きゅっと握った左手薬指が、チリリと痛んだ。 同時に、ふわりと、俺を抱き止めていた火宮の手が離れていく。 「っ、アキ、さん、あなたは…」 ふらりと1歩、明貴の元へ踏み出した足が、小さく震えて、つられるように唇までふるりと震えた。 「翼?」 不思議そうに俺を見上げる明貴の目は、まるで迷子になった幼子のようで。 「アキさん」 きゅんとなる胸の奥を、俺はそっとそっと噛み締めた。 「翼」 「っ、アキさん。あなたは、あなたは、ただ、寂しかった」 ぽろりと口からは、自然と言葉が溢れていた。 「翼?」 「アキさん、あなたは寂しくて、羨ましくて、そして俺に、手を伸ばした」 にこり、と微笑んだつもりの顔は、ちゃんと笑顔に成功しただろうか。 明貴の目が真ん丸に見開かれ、呆然と俺を見つめてきた。 「アキさん、あなたが欲しかったのは、ただあなたを、連明貴ではないあなたを見つめ、ただなんでもない、素のままの自分を見てくれる存在だったんだ」 だから明貴は、軟禁中に俺に「アキ」と呼ばせた。 一切の武器を持たず、俺に誠実に、ずっと優しく接してみせた。 「それが、あなたの本当だ。本当のあなたは、孤独で、寂しく、ただ無邪気でいられる場所を…純粋で裏のない、情が欲しいだけだった」 「っ…」 ボロッとおもむろに、明貴の見開かれた目から涙が溢れた。 それがハラハラと、頬を濡らし、顎を伝い落ちていく。 「アキさん」 それは、とどめの1発だった。 銃弾では暴けない、明貴の心を撃ち抜く優しい一声だ。 パッと顔を上げた明貴が、俺を、火宮を順に見て、涙の溢れる瞳をゆっくりと1つ瞬かせた。 「わたしは…」 「はい」 「私は、中国黒幇のトップだ。六合会首領、連明貴だ…っ」 「はい」 「情など、心などはッ、己を弱くするだけだ。他者に対して弱みを作るだけだッ…」 きゅぅっと噛み締められた明貴の唇が、ふるふると震えて、叫びにも似た悲痛な声を響かせた。 「側に置く人間は、私の益になり、私のためにいつでも命を差し出せるそんな人間だけでいい」 「アキさん…」 「私はそう教えられ、そう生きてきた。なのに、なのに火宮はっ…翼は」 「ん…」 へにゃりと眉尻を下げた明貴が、頼りない視線をふらりと彷徨わせた。 「私のその価値観を、覆させた」 「アキさん…」 「同じ裏社会に身を置く人間だろう?闇に住む者のはずだ。なのに火宮は、なんの利も、なんの益もない、しかも男の子をその手に迎え入れ、翼は翼で、元は堅気、平凡な高校生だったはずの少年が、ヤクザの愛人になど…」 「ん」 「どちらにとってもメリットのない、互いに足を引っ張り合うだけの存在のはずの、2人が」 くしゃりと顔を歪めた明貴の孤独と苦しみの深さが、そこに見える気がした。 「愛や、情というもので、互いを高め、互いを信じ抜き、互いが互いのために、持て得る最高の力を発揮してみせた」 「っ…」 へにゃりと泣き笑いの表情になる明貴の、悲しく痛い叫びが聞こえてくるようだった。 「翼を火宮から無理やり奪い去っても、火宮は嘆いたり冷静さを欠いたりすることなく、きみを取り戻すため、逆に強くなった」 「っ…」 「翼、きみも、決して火宮の弱みになるような人間ではなかった。むしろそれどころか、強みになるような、眩しいほどに強かな人間だった」 「アキさん…」 「無理やりきみを奪い去り、手酷い選択をさせ、それでも、それでもきみと火宮は、どうしたって折れることはなかった」 「っ!」 きゅぅ、と握った左手の拳で、キラリと銀色のリングが存在を主張した。 「羨ましかったんだ」 「っ…」 「ただ、欲しかったんだ、私も、それが」 「っ、アキさん」 「この子なら…翼なら、それを叶えてくれるんだ、と、そう、思ったんだ」 ごめんなさい、と真摯に告げる明貴を責める気には、俺はなれなかった。 「きみが欲しかったよ。私の孤独を理解し、認め、支え、私に…アキに、笑いかけてくれる、私の、私だけの子猫が」 「アキさん…」 「だけど、だけど翼は、どう足掻いても、火宮のものだったね」 ふふ、と自嘲気味に笑う明貴に、俺はふるりと小さく首を振った。 「私には、私にはやっぱり、そんなものは幻で、決して手には入らないものなんだね」 ほろり、と涙を流す明貴に、俺はゆっくりと、その隣を指さした。 「いますよ、あなたにも」 ふわりと告げた言葉は、真っ直ぐ明貴に届いただろうか。 「あなたを一途にひたむきに、連さんでもアキさんでも変わらず見てくれる、そんな人が、そこに1人」 ゆるりと小首を傾げて、優しく紡いだ俺の言葉に、明貴がのろのろと首をそちらに巡らせた。 そのカラーコンタクトで誤魔化した両目とも黒色をした瞳と、劉の片一つとなったその視線が絡み合う。 「リュ、ウ…?」 [連様] 「リュウ…」 [連様、私は、あなたがどなたであろうと、たとえ何者でも、ただひたすらに、どこまでもあなたに付き従い、あなたをお守り申し上げます] 「リュウ…?」 [この身の全霊を賭け、あなたが迎える最期のその日まで、私はともに、あなたのお側で、生き抜いて参りたいと思っております] 「劉…」 [連様、ご無礼を承知で申し上げます。連様、私はあなたを、お慕い申し上げております] 深々と、頭を下げる劉の顔から、ハラリと片目を押さえていたタオルが落ちる。 虚空となったその昏い穴。それは身を張って、己の身さえも顧みず、劉が明貴を守ろうとした証だ。 無償の愛の、掛け値なしの情の、その証だ。 「っ、劉ッ…」 ぶわっと明貴の目に新たな涙が溢れ、その口元がぐしゃりと歪む。 [連様は、お1人ではございません。お許しいただけるのならば、私が地獄の果てまで、お供いたしましょう] 愛しております。 その言葉は、音にはならなかったけれど、明貴の足元、その足の甲にそっと口付けられた劉の唇が、言葉よりも雄弁にその想いを語っていた。 「っ、足の甲にキスなどっ、意味を知ってかっ…」 あなたに隷属する。 私のすべてはあなたのものです。 確か、そんな。 [私はあなたの奴隷。あなたの虜。あなたを誰よりも] 敬い、慕い、愛している。 劉の瞳がそう語り、中国語など聞き取れはしないはずの俺にも、劉の言葉は痛いほどひたむきに伝わった。 「ククッ、これでもまだ、あなたは翼に執着するか?」 「火宮…」 「あなたにはあなたの1番が、ちゃんといるのではないか?」 ニヤリと笑う火宮の笑みは、本当に人が悪いとしかいいようがなくて。 「アキさん」 「翼?」 ふらりと1歩、また明貴に近づいた俺を、明貴が、不思議そうに見上げてくる。 「アキさん、俺は、足の甲にキスはできないけれど、その額になら、この唇を触れても構いません」 「つ、ばさ?」 「友達になら、なれますよ」 あなたの正体を知らないときには、断るしかなかった携帯番号。 「1度しか言わないから、ちゃんと覚えてくださいね」 ニコリと笑って、ゼロから始まる11桁の数字を読み上げる。 「また、日本に来たときは」 「翼っ…」 「お忍びで、また一緒に遊びましょう」 クスッと笑って、悪戯なウインクを向けて。 「ね?アキさん」 ふふ、と微笑んで、とどめの一言だ。 「っーー!翼っ」 パッと目を輝かせた明貴の顔に、ポロポロと新たな涙が伝いまくる。 けれどもその顔は、無邪気な弾けたような「アキ」の笑顔で。 「ハッ、これが本当に、中国黒幇、最頂点に君臨する六合会首領か?」 呆れたように紡がれる火宮の声が、空気を軽やかに揺らして。 「真鍋」 いつの間に消えていたのか、この室内には、明貴の部下たちの姿は1つもなく、あるのは劉と真鍋と俺と火宮の姿のみ。 玉座に座っていたはずの影武者の姿さえ、いつ消えていたものか。 「殺される前に、去るとしよう」 ククッと喉を鳴らした火宮が、劉に抱き起される明貴に背を向ける。 「かしこまりました」 翼さんも行きますよ、と、その手を取られ、フラフラと不自由な歩みの真鍋に促され、火宮に並ばせられる。 「クッ、連の容姿どころか、その涙を見た者など、生かしておかれるはずもないからな。忘れろよ」 いいな?と頭を叩いてくる火宮は、まるでそれを劉と明貴に伝えているようで。 するっと背後で聞こえた衣擦れの音は、2人が礼にと頭を下げたものだろうか。 2度と振り返ることをしなかった俺たちには、その2人の様子は分からなかった。

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