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第623話

「っ…」 火宮に連れられ、やってきたのはどこぞのラグジュアリーホテルのセミスイートルームだった。 いつものスイートとは違い、寝室とリビングの境界が曖昧だ。 けれども普通の客室に比べたら格段に広く、豪華なことには違いない。 相変わらず庶民感覚な俺はカチコチに緊張し、でも実はそれだけの理由ではない緊張を張り詰めたまま入り口付近で突っ立っていたら、先にスタスタとリビングのソファまで歩いて行っていた火宮が、不意にこちらを振り返った。 「翼?来い」 「っあ、はい…」 ピクンッと肩が揺れてしまう。 いよいよだ、と思って、ゴクリと喉が鳴った。 「っ…ふ」 ドキドキと煩い鼓動を宥めながら、下手をすればガクリと折れそうになる足をリビングの火宮の元まで運んで行く。 火宮の横顔からは、特に怒気は感じない。 けれども俺は、自分が引っ提げた罪状の多さも、火宮が1度宣言したものを引き下げることがないことも、よく分かっていた。 分かっていたから、たった数歩の距離でも、やけにノロノロと時間をかけてしまう。 「翼」 ピタリと火宮が座るソファの前にたどり着いたときには、ハッハッと無意味に息が上がってしまっていた。 「クッ、そう必要以上に身構えるな」 「っあ、だって…」 「まぁ分かっているようでなによりだが」 ふ、と鼻を鳴らす火宮の目に、微かな非難の色が窺えた。 「とりあえず、脱げ」 「ふぇっ?」 えっ?いきなり? この明るいリビングで? 俺だけ1人? パパパッと浮かんだ疑問符が、弾けては消えてまた浮かび、目を白黒させてしまう。 ジッとそんな俺を見つめている火宮の目が、スゥッと細められて俺を射抜いた。 「翼?」 言うことが聞けないか?と、冷ややかな火宮の視線に晒される。 「っあ、いえ、はい…」 ここは逆らうべきところじゃない。 俺は、ビクンと肩を揺らして、ノロノロとその服の首元に手を掛けた。 「ふん、連に用意され、与えられた服など、燃やしてやる」 パサリ、パサリと、1つ、また1つと服を脱ぎ去っていく俺を眺めながら、火宮がゆるりと足を組み替えた。 「っ!」 あぁぁ、そうだった。すっかり忘れていた、この人の途方もない独占欲の強さ。 床に積み重ねられていく服を仇のように睨む火宮に、クラリと眩暈を感じる。 「クッ、それも、だ」 「っ…」 最後の1枚、下着に掛かった手が躊躇したのに気づかれてしまったのだろう。 重ねるように命るその声に、俺はビクッとなりながら、渋々従った。 「っあぁ…」 煌々と明るいリビングの光の下で、俺だけ1人素っ裸。 恥ずかしくてたまらなくて、カァッと熱くなる頬を堪えながら、なるべく小さく内側に身を縮める。 股の前でクロスした手で股間を隠していたら、火宮の冷たい視線に睨みつけられた。 「どかせ」 「っ、う」 「翼?」 「は、はい…」 ズシリと脅すような低い声を出されれば、俺に逆らう術もない。 震える手を必死で身体の横に移動させ、けれどもせめて顔だけは全力で俯いて火宮から隠し、俺は身体だけその場できをつけをさせた。 「なるほど。見た目には、傷や痣はないようだな」 「え…?」 あ、れ?もしかして、俺になにか危害が加えられたかもしれないことを疑っていた? ジロジロと、不躾に俺の裸体を眺める火宮が、一通り俺の前半身を確認して、静かに1つ頷いた。 「後ろは?」 振り返れ、と。 端的な火宮の言葉を理解して、俺はくるりと火宮に背を向ける。 「いいだろう。背中も尻も足も綺麗なものだ」 向き直れ、と命じられ、俺は再びくるりと身体を返した。 「翼」 「っは、はい…」 名を呼ばれる度に、思わずビクッと身が竦んでしまう。 緊張でガチガチになった身体を微かに震わせながら、俺はそろりと火宮を窺った。 「おまえは1度、俺の手を、自らの意志で手放した」 「っ…はい」 「そこにどんな理由があるとしても、だ」 「はい」 ピリッとした厳しい火宮の声に、俺は黙って肯定の意を返した。 「おまえは、真鍋の命を見捨ててでも…ッ、俺の元に、帰ってこなければならなかった」 そう、帰れる手段があったにも関わらず、俺は帰らない選択をした。 それは俺が、火宮の隣に佇むことを、一瞬でも拒否した証。火宮の側という場所以外を、1度でも選択したということに他ならなかった。 「は、い」 ぐっと握り締めた拳が、ふるりと小さく震えた。 「真鍋の命を見殺しにできなかった気持ちは、分かる。おまえが真鍋を人質にされ、その命を見捨てて自分だけが助かるなんてことをする者ではないことくらい分かっている。だけど、それでも…」 「は、いっ…」 「おまえは、俺の元に帰ることを選ばなければいけなかった。俺にとって、おまえはかけがえのないただ1人で、真鍋の命より…「火宮さんっ!」 ハッとして、俺は慌てて、火宮の言葉を途中で遮った。 「ごめんなさいっ、ごめんなさい、火宮さん」 駄目だ、駄目だ、駄目だ。 その先をこの人に言わせては、絶対にいけない。 「ごめんなさいっ、火宮さん。刃」 急いで繰り返す謝罪で、火宮の言葉をとにかく奪う。 「俺がっ、俺が…っ」 あなたにどれだけ深い、失う恐怖を与えてしまったのか。 満身創痍で帰還した真鍋から、真鍋をそんな風にした者の元へ俺が残ったと聞いたあなたを、どれだけ心配させ、傷つけてしまったか。 「俺がっ…」 あの時の選択を後悔はしていないけれど、あれが絶対に正しかったと胸を張って言えるわけではなかった。 現に火宮に、一番言わせてはいけない言葉を言わせようとしている。 火宮の恋人として、それを吐かせそうになる、これは罪だ。 どれだけ、蒼羽会会長の正妻として、蒼羽会の姐としての建て前があったとしても。 それは俺が一番大切にしたかった人の、一番重んじたい人の、心を深く抉った理由にはならない。 「ごめんなさい」 ぎゅぅっと俯けた頭で、身体の横に垂らした拳を握り締め、俺は誠心誠意の思いを込めて、火宮に深く謝罪した。 「ッ、ふ、翼。頭を上げろ」 「っ、はい」 スッと持ち上げた顔の正面に、火宮の静謐でいて、けれども燃え盛る炎を隠しきれない、複雑な色の瞳が見えた。 「おまえは俺ではない男の命を救うため」 「っ…」 「俺ではない男にその身を預けた」 「っ、あぁ…」 ゆらり、と火宮から立ち上ったのは、何度も何度も何度も覚えのある、焼けつくような嫉妬の炎だ。 「不貞行為と捉える」 「ひ、みやさん…」 「仕置きだ、翼。まずはその身が俺を裏切っていないこと、確かめさせてもらうぞ」 「えっ、待って、そんなっ、それはしてない!してませんっ…」 「口では何とでも言える」 ニヤリ、と唇の端を吊り上げた火宮に、カチリとスイッチが入ってしまったことが、嫌というほどに分かった。 「この数日間、あの男と2人、ホテルで過ごしていたのだろう?」 「それは…」 「諦めろ、翼。その身の奥の奥まで、俺に曝け出して、潔白を証明して見せろ」 ククッと笑った火宮の瞳が妖しく光り、跪け、と命じる圧倒的王者の声の前に、俺はガクリと膝を折った。

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