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第628話※
ちゃぷん、と湯が揺れる音が響き、ほぅ、と吐き出した息が浴室の壁にこだました。
「ん…っ」
浴槽の壁に背を預けて、俺はうっとりと目を閉じた。
両腕、両足の袖と裾を捲り上げた火宮が、浴室の洗い場にしゃがみ込んで、そんな俺を眺めている。
両手の自由は奪われたままの俺は、されるがまま火宮に全身を洗われ、抱き上げられて浴槽に入れられ、今に至る。
どうせ脱がなければならないほど湿気てしまった服なんて、脱いでしまえばいいのに…。
くたりと弛緩した身体を湯に遊ばせながら、俺は目を薄く開き、浴槽の縁に肘をつく火宮をこっそりと眺めた。
「ククッ、すっかり油断して」
「ん、あっ?」
ニヤリ、と突然口元を歪ませた火宮が、いきなり両手で湯を掬い上げ、ばしゃりと俺の顔面に駆けてきた。
「もっ、なにする…っ」
驚いてパチリと目を開き、不自由な手でどうにか顔についた水滴を拭う。
カシャカシャと鎖を鳴らして文句を言ったら、クックッと楽しげに喉を鳴らす火宮の笑顔が見えた。
「休憩時間だとは言え、まだ仕置き中だということを忘れていないか?」
パシャン、と湯を揺らされ、クックッと笑われる。
「うー、だって」
あまりに空気が穏やかで、手が使えないせいである意味至れり尽くせりな待遇だし。
うっかり仕置きされているのか甘やかされているのか、見失ってしまても、仕方がないと思わないか。
「クッ、反抗的なその目」
「え…?」
「なるほど。休憩はもう十分ということか」
ニヤリ、と獲物を捕らえたハンターのようなその目。俺の目も大概らしいけど、火宮の目も十分に語ってる。
「っ…」
「ククッ、では仕置きの再開といこうか?」
ギラリ、と妖しい光を宿した火宮の目が、スゥッと薄く眇められ、ぐっと息を呑んだ俺の頭を、ぐいと押さえつけてきた。
「えっ、なに…っ?」
は?と疑問を浮かべる間もあればこそ。
いきなり頭を押された俺は、ズルンと浴槽の底に着いた尻を滑らせ、ずるずると浴槽の湯の中に沈んでいく。
「はっ、んッ」
口が潜り、鼻が浸かるという一瞬で、本能的に大きく息を吸い込んだことは偉かった。
反射的に止めた呼吸のせいで、とりあえず湯の中に沈み切ってしまっても今はなんともない。
けれど、頭を上から押さえる火宮の手がある限り、いずれは息がもたなくなることは必至だった。
コポ、コポ、コポ…。
薄く、細く、唇の端から気泡が水面に昇っていく。
ゆらゆらと揺らめく視界に、ぼんやりと火宮のシルエットが見えている。
ジッと水中の俺を見下ろしているのか、顔がこちらを向いていることは分かるけど、その表情までは読み取れない。
コポ、コポ、コポポ…。
少しずつ、少しずつ、俺の体内から酸素が失われていく。
徐々に苦しくなってくる息に、どうにか火宮の手を引き剥がそうと、ゆると持ち上げた手は、額の辺りでガッと鎖の限界に引かれて止まってしまった。
んぐ…ガホッ…。
ボコンと一際大きな気泡が、水面に向かって立ち昇る。
ヤバ…。
残りの空気の半分以上を思わず吐き出してしまった俺は、ザッと血の気が引く音を聞く。
苦し…ッ。
ジタバタともがいて、カリカリと喉を引っ掻くように息苦しさを訴えた俺から、スッと火宮の圧力が消えていった。
「……?」
「ククッ、翼」
不意に、ぐわんとした肉声が、これまでくぐもった音しか捉えることのできなかった耳に飛び込んできた。
途端に喘ぐ口の中に、大量の空気が流れ込む。
「ふっ、はっ、はっ、ゴホゴホッ…」
反射的に酸素を求めて吸い込んだ胸が、突然の大量の空気を受け止め切れずに派手にむせた。
ヒュッ、ヒュッと短い呼吸を繰り返しながら、どうにか落ち着こうと努力する。
ゆったりと、宥めるように髪を撫でてくる火宮の手が優しくて、徐々に呼吸が整ってくる、と思えた、そのとき。
「っな…」
再びグイ、と頭に触れた手に力がこもり、ずるんと全身が湯の中に沈められた。
ガボガボガボッ…。
あまりに突然のことに、息を吸い込むことも、止めることもし損ねた口から、大量の空気が漏れ出す。
一気に失われた酸素に、ものの数秒で苦しくなってくる肺が辛い。
やっ…。
バタバタと浴槽の底を蹴り上げ、犬かきのように目の前の湯を掻く指先が、じわり、じわりと体内の残りの酸素を消費していく。
苦しっ、死んじゃ…。
ゆらり、と歪む視界の向こうには、相変わらず水面越しにぼやけた火宮の姿が見える。
『ひ、みや、さ…』
コポコポと、最後の酸素を吐き出しながら、動かした口の中に、どぷんと湯が入り込んできた。
「ぷっ、は!…はぁっ、はぁっ、ゴホゲホッ」
ずる、と引き上げられた口が、ダパーッと飲み込みかけた湯を吐き出した。
酸欠でぼんやりしかけた頭が、ゆっくりと回り始める。
生理的な涙がボロボロと零れる視界で、緩やかに微笑む火宮の顔を間近に捉えた。
「ふっ、ひっ、はっ、ひみやさ…」
「ククッ、苦しいか?」
「はっ、な、に…当たり前…」
ゼィゼィと上がる息の下で、必死に紡いだ声は、掠れて震えていた。
目を細めてそんな俺を見下ろす火宮の目からは、何を考えているのかさっぱり読み取れない。
「死ぬかと思ったか?」
「っ…」
「死なせるわけがないだろう?」
ククッと笑った火宮が、するりと優しく頬を撫でてきた。
「俺に、預けろ」
「ひ、みや、さん…?」
きょとん、と見開いてしまった目が、ぼんやりと火宮を見つめる。
穏やかな目をした火宮の声色は、真剣そのものだ。
「俺に、預けろ、翼。その身もその命も、一体誰のものだ?」
ニヤリ、と笑った火宮の悪い顔が見えたと思ったときにはもう、火宮の手が頬から上へと滑っていき、ぐ、と頭のてっぺんで押し付ける力と共に止まっていた。
「っ、はっ…」
ひゅっと喉が鳴り、2度の経験で学習した頭が、思い切り胸に息を吸い込ませる。
「ぐっ…」
目一杯酸素を取り込んだところで、ぴたりと息を止めた俺のタイミングを見計らって、火宮が再び、俺の頭を上から押さえつけた。
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