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第629話※
ゆらゆらと、揺蕩う視界のその向こう側に、ぼんやりと火宮の影が見えている。
たっぷりと吸い込ませてもらった息のお陰で、苦しさはまだ訪れず、完全に水没した身体を湯に任せながら、思考も観察もする余裕が残されていた。
あぁそうか。そうなんだ。
湯に沈められたパニックが落ち着きさえすれば、簡単に分かること。
この頭を押さえつけてくる火宮の手は、決して俺を損なわない。
火宮さん…。
ゆったりと全身を委ねてしまえば、思ったよりもふわりと身体は軽くなった。
あぁそうか。そうだった。
俺はあの日、真鍋を帰して残ると決めたあの時、明貴がその後俺をどうしようと仕方ないという覚悟で、この身を明貴に委ねたな。
あの時、銃を…銃口を、自らのこめかみに押し当てたとき、俺は、この命、明貴の選ぶ答えに完全に預けていた。
分かって…。
何もかもを見透かす火宮のことだ。
俺の心も行動の意味も、全部全部お見通しだというわけだ。
あなたには、敵わない…。
だからあなたは試している。
それを俺に分かれと訴えている。
馬鹿だなぁ。馬鹿だ。
俺も、火宮も。
だってもしもこの手が火宮のものでなかったら、俺は全力で抵抗して暴れて、なんとしてでも水面に顔を出そうと必死でもがく。
あなただから…。
俺はギリギリ限界まで息を吐き出してしまったとしても、きっとそのまま火宮の手が上に引き上げてくれるのを待つんだろうな。
だってこの人は死なせない。
俺のことを絶対に、傷つけたりなんかしないから。
愛してる。
コポ、コポ、と、細い息を少しずつ吐いていく。
ゆらり、ゆらりと水中を駆け上がり、ポコポコ弾ける気泡の粒が、ぶわりと水面の向こうに見える火宮の影を歪ませる。
あぁ、気持ちいい…。
ゆっくりと失われていく酸素が、ぼんやりと頭に霞をかけていく。
緩やかに瞬きをする視界の向こうには、変わらず火宮がこちらを覗き込んでいて。
ふふ、好きだなぁ。
水面越しでも変わらない、漆黒の瞳に黒い髪、吸い込まれそうなその美しさに、思わず笑みがこぼれて、同時にブクッと大きな気泡が立ち昇った。
あ…。
急速に酸素が失われる。
けれどももうヤバイとは思わなかった。
「ククッ、翼」
不意に、ぐわんとした肉声が、ぼんやりとした頭を大きく揺さぶった。
「カハッ…ゴホッ」
激しく咳き込み、本能的に酸素を取り込もうとする口が、はくはくと喘ぐ。
けれども、間近に見える火宮の美貌を捉えた瞬間、俺の口元はふわりと笑みを浮かべていた。
ひ、みや、さん。
ヒューヒューと掠れた吐息を漏らすだけの口から、望みの言葉は音を作れず、パクパクと無音で動くだけの口元を、火宮が目を細めて見下ろしている。
「あぁ」
ふわり、と艶やかに微笑んだ火宮の目が、とても優しかった。
柔らかな低音が耳に触れ、じわりとした安堵が全身に広がる。
生理的な涙に重なって、ポロリと1つ、新たな涙が頬を伝い落ちた。
「ひ、みや、さ…」
ゆるりと持ち上げた手が、カシャンと鎖に引っ張られ、中途半端な場所で止まった。
なんで。どうして届かないの。
火宮に届かないその手が嫌で、俺は苛々としながら、手首をカシャカシャ揺らしてもがいた。
「ククッ、ほら」
俺の意図を察したのか、火宮が可笑しそうに笑いながら、両手の枷を外してくれる。
「っあ…」
プランと胸元に落ちた枷をそのままに、俺は今度こそ、火宮に向かって両腕を伸ばした。
「翼」
火宮がおいでというように、胸元を開けて待っていてくれる。
服が濡れる、と思ったのは一瞬で、俺は流されるまま、火宮の背中に自由になった両腕を回した。
ぐっと抱き寄せられ、恐ろしいほどに整った美貌が間近に迫る。
言わずと知れたキスの予感に、うっとりと瞼は閉じていった。
「んっ…」
すでに酸欠な脳内に、甘い麻薬のような痺れがジーンと広がっていく。
足りない酸素を補給するはずの口は火宮に塞がれ、鼻呼吸だけでは足りない息に、頭はまたもボーッと霞んでいった。
「翼。おかえり。おかえり…」
ぎゅぅっと痛いほどに抱き締められる腕の強さが心地いい。
すっかり溶けた脳内に、何かの囁きが聞こえてくる。
けれどもその声を理解することはできず、頭はゆっくりと暗闇に溶けていった。
「……?」
ぼんやりとした頭を、コテンと横に倒したところで、俺の意識はふっつりと途切れた。
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