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第637話
その夜。
火宮の帰りをぼんやりと待っていた俺のもとに、ふらりと真鍋がやってきた。
あの一件の後、真鍋とは1度だけ顔を合わせる機会があった。
その時についていた杖はすでに真鍋の手にはなく、吊っていた腕もスーツの中にきちんと収められている。
ただ僅かに左腕より太く膨れた右腕のその中は、分厚く包帯でも巻かれて固定されているのだろう。
「長引きますよねー」
火宮のことだ。きっとくっつきやすいように、綺麗にポキリと折ったのだろうけれど。
休めと言っても休むはずのない真鍋の傷の治りは、きっと通常より遅いに違いない。
思わずふらりと手を伸ばし、その膨れた右腕の袖に触れようとしてしまった俺に、真鍋がピクンと身を引いたのが見えた。
「あ、すみません」
ついうっかり。
この件はもう手打ちで、互いに触れることはなしにしよう。
そう、あの後初めて真鍋と会ったときに、ひたすら苦しげな顔をして、俺に負い目を感じ、謝罪の言葉すら安いと自責する真鍋に、もうやめましょうと告げたのは俺の方だった。
俺としては真鍋にそんな風に一歩引かれては居心地が悪いだけだし、いつまでもそんな風に負い目を感じて欲しいわけがなかったから。
そもそもあの時のあの選択は、俺の自己満足だ。
真鍋の、この世の誰よりも、何よりも大切なのは、火宮である。
それを知っている俺が取った選択は、真鍋をただ傷つけるだけのものだった。
心も、身体も、傷ついたのは真鍋だ。
それを俺はよく分かっている。
分かった上で真鍋の命を見捨てることができなかったあの選択は俺の自己満足。
真鍋が俺にとって足手纏いになったとは思わないし、もしも攫わせてしまった時点での落ち度を言うなら、会長である火宮からきっちり仕置きはされたはずだ。
俺は俺の立場と考えで、蒼羽会会長の右腕である真鍋を生きたまま蒼羽会に帰らせたし、すでに俺にとっても大切な人である真鍋の命を、ただ守りたかった。
いつまでも気にする真鍋に一言、「もうお終い!」と笑った俺に、真鍋は数秒黙り込んで、そうして静かに一言、「火宮、翼さん」と、よく通る声で、そう告げて深く頭を下げた。
あの一件はすでにそれで、俺たちの中では綺麗さっぱり片が付いた。
「いえ…」
相変わらず、感情の窺えない無表情で、小さく首を左右に振って、玄関を上がる真鍋をリビングまで通す。
今日の用件は何かと問えば、どうやら火宮は今日から数日、本家の方に詰めなくてはならない仕事があるらしく、昼間は事務所に顔を出すものの、帰宅はここではなく本家の方になるという連絡だった。
「そうですか…」
電話連絡ではなく、わざわざそのことを伝えに来てくれたらしい真鍋にお礼を言いながらも、つまらなくなる思いは隠しきれなかった。
「数日間のご辛抱です。ですが今後も、こういったことが増えていくこととは思います。どうぞ、お慣れになって下さい」
「そう、ですよね…。はい」
「それと、会長からご伝言です。1人寝が寂しくても、例の約束は有効だからな、だそうですが」
「っ!」
シレッと言い放つ真鍋に、ガバッと顔を上げて過剰反応を示してしまったのは俺だ。
「例の約束」とは、あれだ。随分と昔のことのように思う、自慰禁止令…。
何のことやらわからないだろう真鍋の前で、理解した俺だけが1人顔を赤くする。
「あんのバカ火宮っ!」
こんな伝言。真鍋に託す類のものじゃない。
「お言葉が過ぎます」
「う…。でもっ、そんなの、メールだってなんだって…」
「ふっ。会長のことです。私に託されて、このような反応をなさる翼さんを想像して、お楽しまれているのでしょう」
よくお分かりでは?と目を細める真鍋に、確かに激しく納得できてしまい、俺はガクッと脱力した。
「本当、あの人は…」
どSで意地悪でとことん火宮様だ。
なんだかとても疲れて、ずるずるとソファに沈んでいった俺に、真鍋が何故か手のひらを上に向けた片手を差し出してきた。
「へ?」
「お見せ下さい」
「え?」
「課題テスト」
「あー」
なるほど。
だから、この人はこの人で、本当、言動が親切じゃない。
まぁそれでこそ真鍋だけれど、もう少し言葉を尽くしてくれてもいいんじゃないかと思わずにはいられない。
それでも今回、出し渋るような結果はなく、俺はパッとソファから立ち上がり、いそいそと鞄の方へ、成績個表を取りに行った。
「ふむ」
「……」
「500点満点中の496点、総合1位」
スゥッと細めた目で個表を見下ろし、真鍋の口元が緩くカーブを描いた。
「頑張りましたね。いいでしょう」
目元も軽く微笑ませた真鍋に、ホッと力が抜けていく。
けれども一瞬後には細めた目に辛辣な光を宿した真鍋が、チラリとこちらに視線を流してきた。
「ですが、4点。ミスをしたところの復習を怠りませんように」
「う…はぁい」
まぁ褒めるだけで済ませないのがこの人だよね。
「ちなみに?」
「う、英語の、文法ミスです」
「なるほど」
やりそうだ、と呟く真鍋に身が竦む。
けれどどうやら咎めるつもりはないらしく、「次も頑張りなさい」と、静かに個表を返された。
「はーい」
まぁでも、真鍋をこの程度で黙らせるほどの成績に、気分はいい。
にこりと笑って頷いた俺は、ふと、そういえばもう1枚、真鍋に相談したい学校からの通信文を持っているのを思い出した。
「あ、そうだ、真鍋さん」
「なんですか」
「あの、これなんですけど」
学校で配られた便りを、真鍋に差し出す。
三者面談のお知らせ、と書かれた便りを見下ろし、真鍋の眉が軽くひそめられた。
「なるほど。三者」
「あ、はい。その、それで…」
こういった学校行事、俺は一体どうしたらいいものか。
保護者と言えば火宮になるのだろうけれど、多忙な火宮をこんな用事に呼び出していいものかどうなのか。
俺には判断がつかず、ふらりと真鍋を見上げたら、何事かを考えていた真鍋がふむと1つ頷いた。
「私が参ります」
「へっ?」
え?真鍋さんが?
驚きはそのまま顔と声に出る。
「何か不都合でも?」
「や、いえ。だけど…」
「会長はこの日程ですと、スケジュールが空きません。それに、あなたの学業に関して主に任されているのは私ですので」
「あ、そう、ですね…」
「会長には私からお伝えしておきます。それから、これは全員ですよね?」
ペラリと便りを手の中で弄び、真鍋が軽く問いかけてくる。
「はい」
「では豊峰の分もですね。同じ日の連続した時間は取れますかね?」
「え?まさか、藍くんの分も真鍋さんが行くんですか?」
「他にいないでしょう?」
「そ、そうですね」
ヒクッと思わず顔が引き攣ってしまうのは、豊峰がそれを聞いた時の反応を思ってだ。
きっと嫌がるだろうなー。
思わず想像して笑いそうになってしまいながら、俺は真鍋の手の中の便りの下の方を指さした。
「ここに、希望日時を書いて提出すればいいみたいです。事情を話して、藍くんと繋げて2コマ取ってもらえるように先生に言っておきますね」
「分かりました」
「よろしくお願いします」
「えぇ。私の都合は…とりあえず、この初日のこの辺りの時間帯で、希望を出しておいてください」
ペコリと頭を下げた俺に、パパッとスケジュールをタブレットで呼び出した真鍋が、サラリと希望日時を便りに書き込む。
「はい。決定したら改めてお願いします」
「分かりました」
スッと返された便りを受け取り、俺は提出部分の切り取り線を、爪を立てて固く折り、ペリペリと破く。
「それでは。他にご用がなければ、私はこれで失礼いたしますが」
「えーと、うん、はい。お疲れ様です。あの、火宮さんにも、あまり無理しないでくださいって伝えてください」
「かしこまりました」
それこそメールや電話という手があるとは思うけど、この程度の用件で火宮の多忙な時間を1秒でも煩わせるのは悪い気がする。
まぁ優秀有能な蒼羽会の幹部様をこんな伝言係みたいに使役するのも悪いとは思うけれど、真鍋は気にした風もなく相変わらず手本のようなお辞儀をして帰っていった。
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