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第641話

ガララッ。 開いたドアの中から、いつでも先に出るのは真鍋だ。 ここは学校で、襲撃の危険性などないに等しいだろうに、真鍋は譲らない。 俺も、1度はこの場所から攫われてしまった過去の記憶があるから、それに大人しく続いて部屋を出た。 途端に俺たちの前にリカがぴょんと飛び出してきて、「びけ…」と言いかけて、「け」の形に口を開いたまま、ピタリと固まった。 「あ。リカ…?」 これはヤバい。 もしかしなくても多分、真鍋の絶対零度の視線にでも晒されてしまったのだろう。 普段の夏原への塩対応を知っている俺は、この人が言い寄る人間に対してどんな視線を送るかが簡単に想像できた。 「っ…」 とりあえず間に入って、双方のフォローをしなくては。 慌てて足を一歩前に踏み出した俺は、何故かリカも同じように俺に向かって足を一歩踏み出して、驚いて目を丸くした。 「え?」 「つーちゃん、大丈夫?」 は? ポポポンッと頭の中に疑問符がいっぱい湧いて、その重さでコテンと頭が横に倒れた。 「あ、えと、なんか、その、強張った顔をしていたから…」 「俺?」 あはっ、勘違い?と恥ずかしそうにするリカに、俺はそっと自分の顔に手を添えていた。 「あ…」 そうか。そんなにも顔に出ていたのか。 「ん、いや、大丈夫。大丈夫だけど…」 慌ててへらりと取り繕うような笑顔を浮かべながらも、俺の視線は知らずと真鍋に流れてしまった。 「あー、そっか。うん。えっと、私、帰るね」 ふわりと微笑むリカは敏い。 上手に場の空気を読み取り、さらりと身を引くその潔さが鮮やかだった。 「あっ、リカ」 「じゃーね、つーちゃん、また明日。美形様も、ごきげんよう」 うふふ、と気取った様子で手を振って去っていくリカの背中を、唖然と見送ってしまう。 「え。あの…。えーと、藍くんは?」 ぼんやりと、もう届かないと分かっている言葉を、意味なく漏らしてしまう。 「ふっ、豊峰でしたら、私を待って出迎える必要はないから、先に帰れと言っておきましたから。帰宅したのでしょう」 それが何か?と言わんばかりのクールな真鍋の声に、俺は「いえ…」と小さく返すのが精一杯だった。 「それで…?」 「あ、いえ…」 コツリと一歩足を出した真鍋が、帰宅を促しながら俺を見る。 きゅっと拳を握ってしまった俺は、取り留めもない思いが頭をぐるぐるして、言葉がなかなか見つからなかった。 「お悩みですか?」 「え?あ、いえ…その」 「先生もおっしゃっていたように、焦る必要はないかと思いますが」 「はい…」 「ただこれだけは。先ほども言いました通り、私や、会長は、あなたにどの大学へ進学しろといったような強制は致しませんので、翼さんは翼さんが思うがまま、お好きな行き先をお選びいただいて構いませんからね」 ふわりと微笑む真鍋の言うことは分かる。 それは俺の意志を尊重する、とても優しく有り難いものだ。ものなんだけど…。 「あなたが自分のご意志でお選びになり、通いたいと思われる学校へ。こちらはそれに合わせて全力で安全を確保させていただき、必要とあらば学習のサポートをさせていただきますから。資金も、会長が惜しむはずもありませんので、ご心配なく」 分かってる。分かるんだ。 分かるけど…。 またもつらつらと取り留めのない思いがぐるぐると巡り、俺は結局、その何一つとしてまとめられずに、真鍋の言葉に黙ってコクリと頷くことしかできなかった。 「それでは志望校がお決まりの際には教えてください」「家庭教師として学習法を合わせる必要がありますからね」と伝えられながら、俺はトタトタと昇降口に向かう真鍋の後に続いた。 では私はこのまま仕事に戻ります、あなたはご自分のお車で、という真鍋と校門の前で別れ、俺はその場に待機していてくれた俺付きの運転手と浜崎が乗る車に乗り込み、学校を後にした。真鍋は真鍋で別の車を待たせていて、そちらに乗り込んで、街の中へと消えていった。

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