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第642話
ブルルルと、小さな振動を身体に伝え、車は帰路に着いていた。
見慣れたいつもの景色が車窓を流れ、ぼんやりとその風景を流し見ながら、思わず「はぁっ…」と吐き出してしまう溜息が、スモークの濃い窓を白く曇らせた。
「あ、その、翼さん?」
ふと、あまりに繰り返される溜息のせいか、助手席に座った浜崎が、窺うようにバックミラーを覗き込んでいた。
「な、何かありました?」
おずおずと口を開く浜崎から、心配の気配が伝わってくる。
俺は、思わずへにゃりと苦笑を浮かべながら、ゆっくりと小さく首を振った。
「いえ…。すみません。気になりますよね」
「いえっ、それは」
「俺の問題なんです…。俺の」
狭い車内という空間内で、気を遣わせるような振る舞いをしてしまったことを申し訳なく思った。
「あ、いえ、おれもその、出過ぎたことを言いました」
「いいえ。俺が悪いんです。俺がどうしようもなくて、甘えたで、情け無いから」
あはっ、と笑った顔に、浜崎の眉が困ったように下がったのがミラー越しに見えた。
「翼さん…」
「本当、すみません。気にしないで下さい」
そう、俺が、あまりに火宮への甘えに慣れすぎた。
あなたの隣に立ち並ぶ。俺は蒼羽会会長の本命、あなたの唯一絶対のパートナーだ。そう自負し、偉そうに何度も火宮の前で啖呵を切って見せたくせに。その俺が自分の進路1つ、自分で僅かも考えていなかった。
火宮に完全に寄り掛かりきった証がそれだ。
「ははっ。おまえはこの大学へ行け。必ず合格しろ。そう、強制的に言いつけられるものと思っていたんだよね…」
聞かれることを求めないまま落ちる言葉は独り言だ。
それを知ってか知らずか、助手席の気配がグズグズと居心地悪そうに動いて、けれども明確なリアクションは返らなかった。
「なにが、自立した自分の足で、火宮さんの隣に並ぶ、だ…。あなたにふさわしくある、だ。自分の進路を、百パーセント火宮さんに委ねて、俺は」
情けなくて笑えて来る。
自嘲を漏らして髪をクシャリと掻き上げた俺の、醜く歪んだ顔が窓に映っていた。
「はは…。怖いのか。そっか。俺は、怖いのか…」
コツ、と額をぶつけた俺と俺の虚像が、おんなじ顔をして口元をぐにゃりと歪ませた。
『おまえの人生はおまえのものだ』
火宮に掬われ、この手に取り戻した、一度は失くすはずだった人生。
その全てを火宮に捧げ、火宮のために生き、火宮のために進む。
俺の世界の中心は火宮で、俺の世界のすべてが火宮だった。
火宮が望むことを考え、叶え。火宮のためになることを考え、行動し。火宮のためだけに、俺のすべてがここにあった。
それでよかった。
それが俺の意志で、俺のための人生だった。
けれど。
それが、突然。
俺の進路は俺が自分で決めていいと言われ、火宮に突き放されたような気持ちになった。
火宮のことが絡まない、純粋な俺の意志で、その選択をしていいと言われた。
それで気づいてしまったことがある。
「っ…俺はいつから…いつからこんなにも、火宮さんに依存していたんだろう…」
ぎゅっと瞑った目で、ゴン、ゴン、と何度も車の窓に額を打ち付けた。
火宮のため。火宮さんが喜ぶから。火宮さんが望むから。火宮さんが…。
そう振る舞う俺だって、間違いじゃないのは分かってる。
だって愛しているんだ。だから俺の言動のすべてが火宮に行きつくのは当たり前だ。
火宮を中心に俺の世界を回して何が悪い。
それが俺の幸せだ。俺はそれで満たされる。
けれどもそれが、裏を返せば、全ての行動の起因を火宮のせいにして、その結果起こり得る現象をすべて火宮の責任にするためでないと言えるのか。
火宮さんのためにしたことなのに。火宮さんが喜ぶと思ってしてしまったんだ。火宮さんが行けと言ったから…。
もしも俺の選択に失敗が生じたとき、その言い訳が成立する行動が、甘えや依存ではないと言えるのか。
「俺には、言えない…」
だから真鍋の言葉にあんなにショックを受けた。
医者になりたいとそう決めたのは俺のくせに、大学、学部1つ、俺は自発的に調べもしなかった。
医者という望みを口にしたのだから、後は火宮がレールを敷いてくれる。
無意識のどこかでそうやって甘えていたんだ。
「それではいけない…」
俺はこれから、庇護されるべき未成年ではなくなっていくんだ。
自らの言動の責任を、自らで持ち、それで起こり得るすべての結果を、全部自分で受け止めていかなければならないんだ。
これまではどこかで火宮たちがフォローしてくれた。
どんな馬鹿をしても、火宮たちが全力で護ろうと、正しい方へと導こうとしてくれた。
けれどもその機会はこれから、どんどんと減っていくのだ。
「俺の人生は俺のもの」
そう、俺が選んだ道の責任は、俺が取っていかなくちゃならない。
「それが、大人になるということか…」
火宮のためと考え、行動することも。その責任は俺にある。
ぶるりと震えた身体をぎゅっと自分で抱き締め、俺はゆっくりと目を開いた。
ジッと俺を見つめる俺がそこにいた。
「っ…浜崎さん」
「ほわっは、へっ?はっ、はいっ。なんっすか?」
ふは。だよね。よっぽど俺、不審者だったよね。
突然呼んだせいで、驚きすぎてきょどった浜崎に笑ってしまう。
「クスッ、ごめんなさい。いえ、あの、ちょっと寄り道をしたくなってしまったんですけど」
「へ?あ、寄り道っすね。いいっすよ?えっと、どちらへ…」
「あの、今から言う住所のところなんですけど…」
「了解っす。ナビに入れますね」
さらさらと、1つの住所を述べた俺に、浜崎の快諾が返った。
運転手がそのやり取りを横で聞き、スーッとスマートにハンドルを切っていく。
いつもの帰宅ルートからは逸れた車窓の景色が、馴染みの少ないものへとゆっくりと移り変わっていった。
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