643 / 719

第643話

そうしてたどり着いた指定の場所に、車がゆっくりと停車した。 下りたいと望んだ俺に頷いて、後部座席のドアを開けてくれた浜崎に礼を言いながら、とん、と下ろした足先を、目的地に向ける。 車が止まった場所から数メートル先。かつての記憶によく残る、見知った道を歩んだそこに、ひらけた空き地が広がっていた。 「え…?」 呆然と見開いた目が、その真っさらな土地を映し出す。 「う、そ、でしょ…?」 見知った道の、その行く先。そこにあるはずの頭の中の光景は、あまりに現実と違っていた。 「っ…そんな」 コンビニエンスストア建設予定地と、形ばかりの看板が立てられ、見れば隅の方にちょこんと重機が止まっている。 「っ…」 本当だったらここにあるはずだった。俺がよく知るボロアパートの姿が。けれどもそれは、跡形もなく、もうどこにも見当たらなかった。 ガクリと膝が崩れ、その場に座り込んでしまう。 慌てたらしい浜崎が、急いで俺の脇に立ってワタワタしているのが、どこか遠くに感じられた。 ざりっ、と指先を滑らせた地面には、工事の余波でか、空き地の中から零れたのだろう土の感触が伝わった。 「無くなっちゃった」 「翼さん…?」 お金はなかったけど。生活に余裕もなかったけど。 だけど確かに笑顔が、確かな幸せがあった、両親と過ごしたあの家が。 「真っさらだ」 変わってゆく。流れていく。 俺も、時間も、確実に。 「変わって、く…」 俺の世界は、こうして1つずつ、けれど着実に。 「っ…」 分かってる。たとえ景色がこうして違っても、そこで過ごした頃の思い出が消えるわけではない。 分かっているけれど、まるですべてが掻っ攫われてしまったような、激しい虚無感に襲われた。 「っ、悪いことじゃない。そう」 分かっている。分かっているんだ、もともとがあのボロアパートだ。 そこに俺の両親が自殺という、とんでもないいわくまでついてしまった。 取り壊すほかなかったんだろう。もう買い手も住み手もつかなかったに違いない。 「この地は新たな道を歩き出した」 ただそれだけのことだ。 持て余されたアパート跡地が、よりよく生かされ、活用される。それはきっと幸せなことで…。 「俺だって、ここから飛び出し、今はあんな高級マンションに住めるなんてことになってるんだし」 ちゃんとそこに幸せがあった。 だからきっと、留まる必要なんてどこにもないのに。 先へ、未来へと進んでいくことは、すべてにとって当たり前で。 逆らおうとしても、留まろうとしても時は流れていくのが現実だ。 「なのに、なんだろう。やだな。やだ…」 ざりっと引っ掻いた地面の土が、爪の間に挟まった。 「翼さん…?」 ふと、遠慮がちに、浜崎の声が降ってきた。 「とりあえず、立ちましょう?」と促される声に、俺はぼんやりとしたまま従う。 小さく震える自分の足と手の意味を理解して、愕然とした思いが止まらなかった。 「翼さん…」 もういいですか?車に戻りましょう?と気遣う浜崎に、俺は素直に従えない。 ふるりと小さく首を振った俺に、浜崎が困ったように視線を彷徨わせたのが分かった。 「ごめんなさい」 俺は、あんなに火宮の隣に自力で立つことに拘っていたのに。今さらそれに怖気付くなんて。 こんなの火宮に対して、裏切りと侮辱でしかない。 変わりゆくことが怖いなんて。 未来に進むこと。それは『今』から飛び出していくこと。 「っ…」 変わりゆくことで、共に変わっていくものがある。けれどきっと変わりゆく中で、決して変わらないものもある。 なのにそれを信じ切らない。 今が失われるのが怖くてたまらない。 みんな、そうして大人になっていくというのに。未来(さき)の保証なんてどこにもない。それでもその中で、出来得る選択をして、先へ進んでいくというのに。 「どこまで子供だ…。どんな子供だ」 情け無くてみっともなくて、火宮に合わせる顔がない。 「ちょっと、帰りたく、ないなぁ…」 ポツリと呟いた言葉に、浜崎がギクリとしたのを間近に感じた。

ともだちにシェアしよう!