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第643話
そうしてたどり着いた指定の場所に、車がゆっくりと停車した。
下りたいと望んだ俺に頷いて、後部座席のドアを開けてくれた浜崎に礼を言いながら、とん、と下ろした足先を、目的地に向ける。
車が止まった場所から数メートル先。かつての記憶によく残る、見知った道を歩んだそこに、ひらけた空き地が広がっていた。
「え…?」
呆然と見開いた目が、その真っさらな土地を映し出す。
「う、そ、でしょ…?」
見知った道の、その行く先。そこにあるはずの頭の中の光景は、あまりに現実と違っていた。
「っ…そんな」
コンビニエンスストア建設予定地と、形ばかりの看板が立てられ、見れば隅の方にちょこんと重機が止まっている。
「っ…」
本当だったらここにあるはずだった。俺がよく知るボロアパートの姿が。けれどもそれは、跡形もなく、もうどこにも見当たらなかった。
ガクリと膝が崩れ、その場に座り込んでしまう。
慌てたらしい浜崎が、急いで俺の脇に立ってワタワタしているのが、どこか遠くに感じられた。
ざりっ、と指先を滑らせた地面には、工事の余波でか、空き地の中から零れたのだろう土の感触が伝わった。
「無くなっちゃった」
「翼さん…?」
お金はなかったけど。生活に余裕もなかったけど。
だけど確かに笑顔が、確かな幸せがあった、両親と過ごしたあの家が。
「真っさらだ」
変わってゆく。流れていく。
俺も、時間も、確実に。
「変わって、く…」
俺の世界は、こうして1つずつ、けれど着実に。
「っ…」
分かってる。たとえ景色がこうして違っても、そこで過ごした頃の思い出が消えるわけではない。
分かっているけれど、まるですべてが掻っ攫われてしまったような、激しい虚無感に襲われた。
「っ、悪いことじゃない。そう」
分かっている。分かっているんだ、もともとがあのボロアパートだ。
そこに俺の両親が自殺という、とんでもないいわくまでついてしまった。
取り壊すほかなかったんだろう。もう買い手も住み手もつかなかったに違いない。
「この地は新たな道を歩き出した」
ただそれだけのことだ。
持て余されたアパート跡地が、よりよく生かされ、活用される。それはきっと幸せなことで…。
「俺だって、ここから飛び出し、今はあんな高級マンションに住めるなんてことになってるんだし」
ちゃんとそこに幸せがあった。
だからきっと、留まる必要なんてどこにもないのに。
先へ、未来へと進んでいくことは、すべてにとって当たり前で。
逆らおうとしても、留まろうとしても時は流れていくのが現実だ。
「なのに、なんだろう。やだな。やだ…」
ざりっと引っ掻いた地面の土が、爪の間に挟まった。
「翼さん…?」
ふと、遠慮がちに、浜崎の声が降ってきた。
「とりあえず、立ちましょう?」と促される声に、俺はぼんやりとしたまま従う。
小さく震える自分の足と手の意味を理解して、愕然とした思いが止まらなかった。
「翼さん…」
もういいですか?車に戻りましょう?と気遣う浜崎に、俺は素直に従えない。
ふるりと小さく首を振った俺に、浜崎が困ったように視線を彷徨わせたのが分かった。
「ごめんなさい」
俺は、あんなに火宮の隣に自力で立つことに拘っていたのに。今さらそれに怖気付くなんて。
こんなの火宮に対して、裏切りと侮辱でしかない。
変わりゆくことが怖いなんて。
未来に進むこと。それは『今』から飛び出していくこと。
「っ…」
変わりゆくことで、共に変わっていくものがある。けれどきっと変わりゆく中で、決して変わらないものもある。
なのにそれを信じ切らない。
今が失われるのが怖くてたまらない。
みんな、そうして大人になっていくというのに。未来 の保証なんてどこにもない。それでもその中で、出来得る選択をして、先へ進んでいくというのに。
「どこまで子供だ…。どんな子供だ」
情け無くてみっともなくて、火宮に合わせる顔がない。
「ちょっと、帰りたく、ないなぁ…」
ポツリと呟いた言葉に、浜崎がギクリとしたのを間近に感じた。
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