646 / 719
第646話
「くはは、翼くん、きみはな、自分の未来に、火宮の意が介入しない選択肢があることが、寂しいんだ」
「え?え…?」
「火宮の手から離れたところに、自分の世界がどんどん広がっていくことに、恐れをなしたんだ」
「そ、れ、は…」
トン、トン、と、とても緩やかなテンポで、目の前のテーブルを優しく指先で叩く七重のリズムに、ゆっくりと呼吸が落ち着くのを感じた。
「火宮にがんじがらめに囚われ、束縛されている今が消えゆくこと、それが怖い」
「っ…」
「火宮の元から飛び出し、自由に羽ばたける世界で、今が、現状が変わってしまうことを、どこかで恐れている」
「っ、は、い…」
「変わっていくこと。ただそれに漠然とした不安がある」
なぁ?と首を傾げる七重に、俺はゆっくりと、自分の中にある感情に目を向けた。
「そ、れは…」
「変わりゆくことは怖いよなぁ」
「っ…ん」
「変わってほしくないものまで、変わってしまうかもしれないと、そう怯えてしまうよな」
「は、い…」
静かに、深みのある声音が、するりと胸に溶け込んだ。
「変化と変容。時が流れゆく中で、それはどうしても避けられないことかもしれない」
「っ…」
「けれどな、翼くん。きみは、きみたちは、決して変質はしないんだ」
だから、恐れる必要はなにもない、と笑う七重に、俺は自分が曖昧で複雑な、とても情け無い表情をしているんだろうと思った。
「あ、あ、あぁ…」
「火宮がな、きみに幅広い自由を与えても、あれの独占欲や嫉妬心、そしてきみへの愛情は、決して変わることなどないと思うぞ」
だろう?と揶揄うように笑う七重に、俺はただ、ガクガクと頷いた。
「きみが火宮の手の中から飛び出して、自らの力で切り開いていく未来を歩み始めても、きみがきみであることは1つも変わらない」
「っー!は、い」
「きみは、蒼羽会会長、火宮刃のパートナーで、誰より聡く強く、そして立派にその隣に立っている」
「っ…」
「そのきみを、火宮が愛し。その火宮を、きみが愛する。それはきっと、決して変わることはない」
ヤクザのトップとは思えぬほどの、優しく柔らかな笑みを浮かべた七重に、俺はくしゃくしゃに自分の顔が歪んだことを自覚した。
「その質は、決して変わらない」
「っーー!」
誰よりも。誰よりも力強く、七重にそう保証され、俺は目の前の霧が、パァッと晴れていくような気がした。
「ふはは、いい顔になった」
「七重さん」
「このジジイも、少しはきみの標べになったか?」
「っ、はい!はいっ、とても」
「それは良かった」
好々爺然として、にこやかに笑う七重に、俺もつられて笑み崩れてしまった。
ともだちにシェアしよう!