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第647話

「それではいい表情になったところで、ケーキでも食うか」 「七重さん?」 「ちょうど到着したようだ」 にや、と口角を持ち上げた七重が顎をしゃくるのとほぼ同時に、トントンと、部屋の襖がノックされる音が響いた。 「中条だろう?入れ」 「は。失礼いたします、オヤジ」 膝をついて頭を下げた中条が、スススと静かに襖を開く。 その手に提げられていたものは、女子が大好きそうな有名パティスリーのケーキの箱だった。 「茶もついでにいれてくれ」 テーブルにケーキの箱を広げた中条に、七重が言い放つ。 チラリとこちらに向けられた目が、コーヒーか紅茶か緑茶かと、確認を取って来るのが分かった。 「あ、じゃぁ紅茶で」 すみませんと恐縮しながら、中条がテーブルの上を整えてくれるのを待つ。 七重は熱々の緑茶を頼み、俺の目の前には何種類ものショートケーキと、紅茶のカップが置かれた。 「って、多っ!」 だから、ケーキは普通、1人1個だと思う。 俺の感覚の方がおかしいのかと思いたくなるほど、キョトンとしている2人が怖い。 「好きなものを好きなだけ食えばいい」 「だから…いえ、ありがとうございます、いただきます」 なにかおかしいか?と言わんばかりの七重の目に敗北して、俺はそっと並んだケーキの中から、美味しそうなベリーの乗ったケーキを選び取った。 「他は?」 「いえ、1つで十分です」 「そうか?遠慮はいらんぞ」 「してませんて」 じゃぁ土産に包ませるか、と中条に目配せしている七重は、ケーキを食べないのか。 「七重さんは?」 「俺か?俺がケーキ?」 それこそおかしい、と笑う七重に、俺は何が可笑しいのか分からずに、コテンと首を傾げた。 「オヤジにケーキをお勧めとは…」 くっ、と喉を詰まらせて、中条が傍でフルフルと肩を震わせている。 「あっ、そう、ですよね。ごめんなさい、ヤクザの組長さんに、スイーツなんて…」 勧めるものではなかったのだ。怒られる、と思って慌てた俺に、中条がついに堪え切れなくなった様子で、ガバリと顔を上げ、「ぷはははっ」と吹き出した。 「にあっ、似合わないっ…」 ひぃひぃ言いながら、必死で笑いを抑え込もうとしているが、震える声が誤魔化せていない。 そんな中条に、七重の嫌そうな視線が向いた。 俺はてっきり怒鳴られるかと思っていたから、突然弾かれたような爆笑に、キョトンと拍子抜けしてしまう。 「おい、中条」 「ひっ、ひぃ、申し訳っ、ありません。だけどオヤジっ…オヤジにケーキ」 「ふん」 「大物過ぎますって、翼さん。さすが火宮会長のお連れ様」 「中条」 いい加減に、と七重が一段声を潜めたところでようやく、中条が目の端に滲んだ涙を指で掬い、申し訳ありませんでしたと深々頭を下げる。 「大変失礼いたしました」 あぁいいもの見た、と清々しい顔をする中条に、七重の仕方なさそうな目がちらりと向く。 「まったく。ふ、だが、翼くんはさすがだろう?この俺に、こんな可愛いケーキをとな」 「はい」 「その自然体の感覚が…たまらんな」 火宮が選んだ意味が分かるだろう?と得意げにする七重に、中条がようやく笑いを収めて深々と頷いた。 「へ…?」 1人意味が分からないのは俺だ。 キョトンと2人を見比べてキョロキョロとしたけれど、2人はにこやかに笑い合うだけで、それ以上何を話す気配もなかった。 そうして中条が静かに退席していき、俺は用意されたケーキを有難くいただいた。 向かいで七重はお茶を啜りながら、そんな俺を眺めている。 「んぐ…?」 「ふはは。本当に、きみはな。いい子だ」 「ふぇ?」 もぐもぐと、口に詰め込んだケーキを飲み込みながら、俺はコテリと首を傾げた。 「いや、な。そうだ、じいのお節介ついでの軽口だと聞き流してもらってもいいんだが」 「七重さん?」 「進学先だけどな。火宮に、甘えればいいと思うぞ」 「へ…?」 突然、にこやかに微笑んで言い出した七重に、俺はますます首を肩に預けた。 「これまで、翼くんは火宮にがんじがらめにされていたんだ。それが、突然好きにしろと言われた」 「はぁ」 「まるで、あなたの愛情表現が、突然薄れたみたいで寂しいんですぅ、ってな。言ってやればいいんだ」 ふははは、と悪戯小僧みたいな顔をして笑う七重に、俺の顔は別の意味でくしゃりと歪んだ。 「そ、れは…」 「将来の責任を、火宮に押し付けるみたいで嫌だ、か」 「はい…」 「そんなきみだからこそな」 「え…?」 「火宮が、惚れて求めてやまないんだ」 にっ、と笑う七重の顔は、あまりに柔らかく優しかった。 「あ、の…?」 「そうやって、自分の甘えに自力で気づけて、それを自ら戒めようとする強く賢いきみの、どこが甘いんだ、情けないんだ」 「七重さん…?」 「十分立派だ。きみはもう少し、自分の評価を自分で上げてやったほうがいい」 ゆるりと目を細めた七重の視線は、深い慈しみに満ちていて。 俺はなんだか、たまらず胸の奥が疼くのを感じた。 「だから、その半分だけでもな、火宮には、堂々と持たせてやれ」 「え?」 「2人で歩いているんだろう?2人で進む人生だ。将来の責任だなんだ、そんなものは、火宮に半分預けてやればいいんだ」 「っ…」 「それがきみの特権で、そして火宮の特権だ」 な?と笑う七重に、きゅぅっと左手の薬指に力が入った。 「依存ではない。信頼だ」 「あ、あぁ、俺…」 「きみたちのそれは、ちゃんと互いに、正しく向いていると思うよ」 恐れるな、と笑う七重に、俺はじんわり滲む視界を必死で誤魔化しながら、目の前のケーキをばくりと口の中に押し込んだ。

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