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第648話

「しかしなぁ。きみは医者になるのか」 しみじみと、遠くを見ながら呟く七重の目が、不意ににやりと悪戯な光を放つ。 「はい、そのつもりで…」 「では俺の…」 「え?」 「俺の、この七重宗一の、専属医師にならんか?」 金に糸目はつけんぞ、と笑う七重に、へにゃりと情けない笑みが浮かんでしまった。 あぁやっぱりこの人は、火宮の「オヤジ」さんだ。 思考回路が似すぎて笑える。 「あは。嬉しいお誘いですけれど、残念ながら」 「チッ、蒼羽会か」 「はい。もしも…がないのが1番ですけれど、蒼羽会の人たちに、もしもがあったときには診てあげられる、医者になりたいかな、って」 「そうか。だが、やつらの怪我を診るというのは…」 「闇医者になる覚悟も必要、ですか?」 「あ、あぁ。普通の怪我や病気ならいい。けれど、もしも銃創や刺創など、表向き処理できないような傷の処置をする必要が出た場合は…」 「通報義務を無視して治療に当たることになる、ですね。覚悟はあります」 裏社会の中に生きる。俺はもう、その部分は揺るがない。 「火宮さんと一生を添い遂げる覚悟は出来ているんです。その火宮さんの大切なホームの人間が傷ついたら、俺は自分のどんな立場を無視してでも、手を貸すつもりでいますよ」 「そうか」 「それが世間から見て正しくなくても、誰かが見て正義ではなく悪だとしても」 「あぁ」 「俺が、守りたいものはただ1つです」 「「火宮刃のすべて」」 へにゃりと笑った俺の声と、にやりと確信犯的に目を緩ませた七重の声が、ぴったり1つに重なった。 「だから、翼くんだ」 「ふふ、七重さんが、火宮さんの親分さんで、俺の友人で、よかった」 「嬉しいことを言ってくれる」 「いち本部理事の情人としては、あなたに向ける態度として正しくはないんでしょうけれど…」 「そんなもの」 「好きです」 「なんと?」 「大好きです、七重さん。これからも、よい先輩として、火宮さんの育てのお父さんとして、俺の大事なアドバイザーで、頼りがいのあるオヤジさんとして…」 「ふはは」 「この不束者を、よろしくお願いします」 にこりと笑って、ペコーッと頭を下げた俺に、七重が心底嬉しそうに、けれど何故か、ものすごく愉快そうな表情を浮かべたのが、俯きゆく視界の端に見えた。 「そうしてやってしまうのが翼くんだな。本当、愉快だ」 「へっ?」 「俺は知らんぞー?」 ふはは、と笑う七重の声に、「何が?」と疑問符いっぱいの顔を上げたその瞬間。 スパーンッ! 「翼。オヤジ」 挨拶もへったくれもなく、無作法に襖を思いっ切り開け放った火宮が、ピクピクと額に青筋を浮かべて、そこに立っていた。 「げ」 「ふはは、だから火宮。お前は俺への訪問態度がな」 理事の座についたのだから、もう少しそれらしくしろ、と苦言を漏らす七重もどこ吹く風。 火宮は遠慮の欠片もなく、ズカズカと室内に入ってきた。 「無駄に敵を増やすと自分の首が締まるぞ」 「ご忠告どうも、そんなことより、翼」 七重組最高幹部様の発言も、しらっと切って捨て、ギロリと火宮が見据える先は、俺。 「ひっ…」 「先の発言、俺の聞き間違いでなければ、オヤジを大好きだとか抜かしてなかったか?」 「っ…」 反射的に、ブンブンと意味なく首を左右に振るけれど、確信的に睨み据えてくる火宮の耳には、ばっちりはっきり届いていたんだろう。 「嘘をつくと酷いぞ」と言わんばかりの鋭い目が、ジッとこちらに注がれている。 「翼?」 「っーー!」 「火宮」 とんでもない威圧感をもたらしながら、俺を見下ろしてくる火宮に口がきけない。 委縮したまま息を詰める俺を見兼ねてか、七重が挟んでくれた口は、火宮の鋭い一睨みに閉ざされてしまった。 「あー、手に負えんわ、これは」 「なっ、なえ、さん…」 見捨てないで、と震える俺に、七重は肩を竦めて見せるだけ。 「翼」 「ひぃー。ごっ、めんなさいっ。でも違うんですよ?違うんです、七重さんが好きと言ったのは、人としてですからねっ?頼れる人生の先輩として!お父さんみたいなお爺ちゃんみたいな感じでっ…」 ワタワタと、必死で言い訳をする俺を、火宮はニヤリと見下ろしてくる。 「っ…」 「当たり前だ。恋愛感情で好きなどと言ったのだとしてみろ?」 おまえは一生監禁、オヤジはオヤジでも半殺しだ、と物騒極まりない発言をぶちかます火宮に、俺はザッと血の気が引く音を確かに聞いた。 「くはははっ、俺を半殺しか。本家の真っただ中で言う台詞じゃない」 「っー、そこじゃないですっ」 突っ込みどころが違うからっ、七重さん! 呑気な七重に、俺はもう半泣きだ。 「ふははっ、まったく、この独占欲の塊が、火宮か。愉快」 「七重さんー」 「みっともないぞ、火宮。だが、そのみっともない火宮を、もっと情けない男にしてやろうか、なぁ翼くん」 な、何をする気ですか、七重さんーっ! 何やら悪い企み顔をした七重に、俺はもう、これ以上火に油を注がれてはたまらないと気が気じゃない。 止めて!と訴える俺の視線が分かっているだろうに、悪そうに笑み崩れた七重の口は止まらない。 「最高学府」 「オヤジ?」 「最高学府の選択に悩んでいるらしい翼くんにな、だったら俺が行き先を決めてやろうじゃないか」 「は?え?」 「どうやら火宮が自由にしろと言ったらしいからな。なら、俺が決めてやっても構わんだろう」 なぁ?と火宮を挑発する七重に、俺はもう、何もかもがオワッタ気がした。 「ふん。何がどうなってここにたどり着いたのか、浜崎から聞いたまた聞きでしかないがな、翼。おまえが進学先を押し付けられなかったことで、俺の意図と違った不安を抱えてしまったのなら、そんなものは俺が取り払ってやる。オヤジの出番じゃない」 「そうかな?翼くんは、この俺を、頼りにやってきたんだぞ」 にやにやと、悪ぅい笑みを浮かべる七重に、火宮の青筋がピキピキと深みを増した。 「オヤジ!」 「ふふん、火宮が翼くんの手綱を緩めるのが悪い」 「っ、俺はそういうつもりではっ」 「まぁ、俺にはお陰で好都合。翼くん、きみが行くべき学校は…」 「言わせてたまるか。翼、おまえが目指す大学はな…」 あぁもうこの人たち。本当にこれで、ヤクザ総本山のトップと、そこの理事に抜擢されたトップクラスヤクザか。 まるで子供のような言い争いに、俺というおもちゃを巡っての取り合いなんて、本当、目眩がしてくる。 その弊害が全て俺にやってくるのが目に見えているんだから、もうどうしようもないったらない。 はぁっと深く溜息をついた俺は、2人が先を競って言い放とうとする、その大学名を言わせる前にと、浮かんだ1つの校名を口にした。 「「「〇〇大学」」」 呆れたように言い放った俺の声と、我先にと言われた火宮と七重の声がピタリと重なる。 三者三様の、けれども寸分違わぬ、この国で一番偏差値が高いと言われているその大学名に、俺たち3人は、それぞれキョトンと顔を見合わせて、次の瞬間、思わず吹き出した。 「なんだ。火宮も結局、決めていたんじゃないか」 「オヤジこそ。なんで同じ学校を上げるんです」 「そんなの翼くんに見合いかと思ったからだ」 「俺だって、翼は最終的に、翼の選択肢はそこしかないと思ったからです」 あぁもうなんなんだ。なんなんだこの人たちは。 「もう、俺はっ…」 結局、自分で選んでしまった進学先。 けれどもそれは、火宮が思い描いていたらしいもので、七重の後押しまでいただいてしまったもの。 「なんだかなぁ…」 悩んだ時間はきっと無駄ではないと思う。 けれど、蓋を開けてみれば、こんなあっさりと解決だ。 重なる想いと向けられる想い、そして向く自分の想いが嬉しくて、俺はへにゃりと崩れていく顔をどうにも止められなかった。 「好きです。大好き」 へにゃりと向けた言葉の先は火宮だったけれど、その言葉のせいで、火宮の笑みがまたもニヤリと意地悪くなる。 「その言葉の意味は?」 「っー!も、ちろん、人としての好意と…恋愛的な意味も…」 あぁ、何を言わされているんだ、俺は。 七重のにやにやとした顔が、さすがに居たたまれなくてたまらない。 「ほぉぉ?そしてその好意を、少しでも他人に振り分けたわけだ」 「っ、だってそれはっ…」 『心が狭いぞー、火宮』 こっそりと囁くように口を挟みながら、もっとやれ、やれ、と煽っているようにしか聞こえない七重の声にげっそりする。 「束縛。されたいんだよな?」 「っー!言ってないですしっ。こういう意味じゃなくってっ…」 「浜崎と真鍋の話を総合すれば、おまえが何を考えたかくらい想像がつく」 「っー!だからっ…」 そうじゃないっ!と叫ぶ声は、火宮に華麗に無視されて、にやりと笑う七重の視線は、あまりに愉快な見世物をみるようなものになっている。 「あぁぁぁっ、助けて七重さんーっ!」 思わず思いっ切り叫んでから、ハッと気が付いた。 あ、ヤバイ。これは完全に間違えた。 オワッタ俺…。 ザーッと青褪めた俺を見下ろす火宮の目が、壮絶な凄みを宿して、ニヤリと微笑んだ。

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