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第661話
客入れ開始の合図と共に、派手な花火が打ち上がり、途端に息つく間もなく怒涛の勢いで忙しさが増した。
開始直前までしていた豊峰との雑談は必然的に打ち切られ、押し寄せる客たちを捌くので精一杯だ。
座席数や回転率、その他諸々をしっかりと計算していたリカの予測を上回る形で、すでにクラス前の廊下には長蛇の列が出来ていた。
「うへぇ、聞いてねぇっ」
次はこれを3番テーブル、こっちは5番さんに!と叫ぶ調理場からの怒鳴り声に、銀色の丸いトレンチに乱雑な勢いで飲み物を乗せた豊峰が、ブチブチ文句を垂れている。
「笑顔っ、笑顔っ。あっ、つーちゃん、8番空いたからお客さん1組入れてーっ」
メイド希望だから!と慌ただしく叫ぶリカに、俺はヒラリとスカートの裾を翻して店内入り口に向かった。
『戦場だ…』
にっこりと可憐な笑みを浮かべながら、内心ではこの状況に唖然となっている。
それでも。
「お帰りなさいませっ、ご主人様」
ふわりと浮かべた笑顔と同時に、口から滑り出たのは、前日までに散々リカたちに特訓された台詞だ。
照れたら負け。恥ずかしがったら終わり。
念仏のように内心で唱えながら、普段ならば絶対に口にすることがない恥ずかしい台詞を、俺はスラスラと口にした。
お客様…もとい、ご主人様を案内したテーブルの隣のテーブルでは、やっぱり女装メイドが、「美味しくなーれ、もえもえキューン」なんて、手でハートを作りながら、にっこり笑顔を浮かべている。
思わず頭を抱えたくなる台詞と仕草もまた、昨日までに仕込まれたものの1つだ。
すでに開店から、俺も何度か口にしたそれを、げっそりと横目で見ながら、俺は俺の受け持ったご主人様に、にっこり笑顔でメニューを差し出した。
*
「はぁぁぁっ、つっかれたぁー」
ぐったりと、ようやく自分の担当時間の接客を終えた俺は、バックヤードに引っ込んで、休憩用の椅子に座り込んだ。
途中、何度かメイク直しや衣装直しをしてもらい、これだけよれた本体とは裏腹に、まだ完璧な様相を保っているメイド姿から、くしゃりとホワイトブリムをむしり取る。
手近なテーブルにポイッとそれを放り出したところで、たまたまリカが、ひょっこりと顔を出した。
「あーっ、そんな乱暴に扱って。ってでも、お疲れ様」
まだ使うのよ?と目くじらを立てたリカが、腰に手を当ててプンプンしながらも、分かったようににこりと笑った。
「本当、疲れた。リカは?まだシフト入るの?」
「もっちろん」
ビシッとブイサインを向けてくるリカの、高く保ったままのモチベーションがすごい。
「つーちゃんは休憩時間かー」
「うん。休むよ?俺は休むからねっ?」
惜しいなー、と怪しい視線を向けてくるリカに、俺はブンブンと両手を振った。
「まぁ、他を見て回る時間も必要だけど…」
うーん、と、まだ名残惜しそうな視線を向けてくるリカに、俺は座っている椅子ごとジリジリと後退った。
そのとき。
どよりと校内の空気が不自然に揺れたような、波紋のような揺らめきが、感じられたような気がした。
「……?」
「……ん?あ、これって」
その気配に気づいたのはリカも同じだったようで、パッと身を翻したリカが、窓際に走って行く。
「んーっ、やっぱりぃ。うふふふふ、つーぅちゃんっ」
にぃっこりと、満面の笑みを浮かべたリカの顔が、逆光の中からこちらを見る。
その胡散臭い笑顔のリカが、スタスタと俺の側まで戻ってきて、俺の頬っぺたを悪戯にツンツンとつついてきた。
「ちょっ、なに…」
この顔。もう悪い予感しかしないんだけど。
にんまりと、ますます楽し気に緩んでいったリカの口元が、ゆっくりと開いた。
「来、た、み、た、い」
「え…?」
「んふふ、び、け、い、さ、ま」
ツン、ツン、ツンと、言葉に合わせて頬を突いてくれたリカが、ニッコリ笑った口元に、その指先をきゅるるんと可愛らしく添えて見せた。
「っ…」
「もちろん、連れてきてくれるよね?」
ん?と小首を傾げるリカは、絶対にどう見ても小悪魔で。
「いや…」
「まさか。嫌だ、なんて、言わないよねー?」
咄嗟に断りを入れようとした俺の言葉に食い気味で、可愛いけれど有無を言わせない悪ぅい笑顔が炸裂した。
「っ…」
黙り込んだら負けだと思うのに、この圧倒的な笑顔はなんなのだろう。
タラリと背中を伝った汗は、冷やりとつめたく、口は虚しく震えるだけだ。
「んふふふ、休憩ついでに、お客様をご招待ー。美形様も、会長様もいるみたい。なんか味のあるダンディなおじさまも連れているみたいだけれど…」
誰かな?と微笑むリカは、その正体を知らない。
「まぁいいわ。みんなまとめて、ここに案内してね。なんならそのまま接客してくれてもいいわ」
「はぁっ?それはやだよ!」
休憩時間でしょ?
とんでもないリカの言葉に、俺は目を剥いた。
「じゃぁ連れてきてくれるだけでいいから。接客は私たちが丹精込めてするから、ね?つーちゃんごと、しっかり」
「……」
「何か文句ある?」
ジロリと凄惨に睨んでくるリカに、敵う者がいたらお目にかかりたい。
これで異議を唱えようものなら、休憩自体反故にするわという気迫が滲んで見える。
クラス委員様で女王様のリカ様に、俺は敢え無く屈服するしかなかった。
「はぁっ。分かった。分かった、呼ぶ。呼ぶから。ちょっと出てて」
制服に着替えるよ?と目配せしたリカの顔が、「はぁ?」と冷たく白けていく。
「何言ってるの?そんなの駄目に決まっているじゃない」
「はい?」
「つーちゃんはその恰好のまま!休憩時間もその辺歩いているだけで客寄せになるんだから。今日1日その姿は解けないと思って!」
「んな…」
着替えは断固認めませーん、と笑うリカに、俺は呆然と言葉を失った。
「はい!メイク!衣装!ちゃちゃっと手直ししちゃってー」
途端に張りのある声で、ヘアメイク担当者と衣装担当者を呼ぶ姿に、もうどうとでもなれと諦めが俺の全身を支配する。
「うふふふ、これで、糸目をつけなさそうな美形様御一行がたっぷりうちにお金を落として下さって、しかも眼福。校内を歩かせればつーちゃんが新規客を次々釣ってきてくれるだろうし、あの美形様たちに引き寄せられた客もうちにゾロゾロ流れ込む計算ね。わぁ、なんて素晴らしい、一石二鳥も三鳥も四鳥も五鳥も…」
先程投げ出したホワイトブリムを綺麗に頭に付け直され、ポンポンと頬にメイクの刷毛をはたかれながら、俺はブラックな笑みを溢しながら、ブツブツと呟いているリカに、げっそりと盛大な溜息を漏らしていた。
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