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第667話
ぎくり、と強張ってしまった身体から、警戒を悟らせないようにゆっくりと力を抜き、その男が敵か味方かを推し量る。
ちらりとこちらに向けられた視線からは、その新たな男が何を考えているのかはさっぱり読み取れなかった。
「っ…」
もう、何でもいいや。
とにかく、この場を打破することが先決だ。
男が味方だろうが、もし敵だったとしても構わない。
とにかく俺を押さえつけている男たちを振り切るために、可能性があるのならそれに賭けるしかない。
「んむむむーっ、うむむむ、むむむーっ」
『助けて。助けて下さいっ!』
願うように、縋るように、必死に男に向けた目は、ゆるりと細められた男の目に受け止められた。
「ん~、これは、どうやら合意ではないようだけど?」
にこりと人好きがする笑みを浮かべた男が、こてりと首を傾げる。
悠長に歩いて近寄ってくる辺り、この人に頼ってしまってよかったのだろうかという不安が一瞬頭をよぎった。
「ふははっ、なんだよ、オニーサン。邪魔立てするのは、許さねぇぜっと」
案の定、どう見ても弱そうな、ヘラリとした男に、俺を囲んでいた男たちが完全に舐めてかかっていくのを絶望的な思いで見つめる。
人選を間違えた…。
敵味方以前に、この男たちとやり合って敵うかどうかが、すっぽりと抜け落ちていたことを悔やんでも遅かった。
「あぁん?それともアンタも混ざりたい?男に突っ込む趣味はねぇけど、サンドバッグになりたいってんなら遠慮しな…っが!」
ニヤニヤと、下卑た薄笑いを浮かべながら、1人の男がヘラヘラ男に近づいて行った瞬間。
なんの前触れもなくバキッと鈍い音が鳴り響き、男の1人が吹っ飛んだ。
「え…?」
思わず動揺したのは、俺だけではなかったらしい。
ふらりと離れていった口元の手に、言葉が自由になる。
1人、また1人と、俺を拘束している手を離していく男たちが、ゆらりと怪し気なオーラを醸して、ヘラヘラ男に向かっていった。
「てんめぇ、何しやがった!ふざけんなよっ?」
1人が吹っ飛ばされたことに血が上ったか、他の男たちが次々と新たな男に飛び掛かっていく。
自由になったにも関わらず、突然の新たな展開に思考がついて行かなかった俺は、助けを呼ぶことも忘れ、馬鹿みたいにその様子を見つめていた。
「ぐはっ」
「がぁっ…」
「うぐぇっ…」
時間にしたらほんの数秒。瞬く間もあればこそ。
ヘラヘラ男に飛び掛かっていった男たちが、次々と奇妙な呻き声を上げて、トイレの床に崩れ落ちていった。
呆気にとられたまま、その場面をただ見つめてしまう。
「さぁて、おまえで最後だ」
来いよ、と指先をクイクイと挑発的に動かすヘラヘラ男に、最後の1人となってしまった男が、やけくそ気味に突っ込んでいった。
「うぉぉぉっ!」
「遅いッ」
「ぐぎゃぁっ…」
ドスッ、と聞こえた鈍い音は、男の鳩尾に見事に蹴りが決まったものか。
ごほっと無様な咳を残し、男の身体がズルリと床に沈み込む。
「ふっ、口ほどにもない」
パンパンと、手と汚れてもいない洋服を払って見せたヘラヘラ男が、ふと俺の方に視線を巡らせた。
「それで、大丈夫?メイドさん…の姿をした、女装の男子くん?」
クスッと笑った声は、軽やかに耳を通り抜けていき。
「は、い?えっ?あっ、あのっ、ありがとうございました!」
ペッコリと下げた頭の上から、クスクスと楽しげな笑い声が落とされた。
「うん。でもそのクオリティ、気を付けた方がいいと思うよ?」
「え…?」
「男子トイレ。こいつらもそうだけど、僕も一瞬、ドキッとしちゃったからね」
パチリとウインクなどをして見せるその顔は魅力的だ。魅力的なのに、どうにも捉えどころがない、そんな不思議な顔だった。
「すみません」
「いや。そのズレちゃった胸がなかったら、僕も勘違いしたままだっただろうけど…」
「えっ?あっ!」
そういえば、いきなり「女装の男子」と見破ったわけは、そういうことだったのか。
男たちに乱暴に揉まれた偽物の胸は、すっかりパットがずれて不格好な怪しさになっていた。
「クスクス、じゃぁ僕はこれで」
失礼するね、と手を振る男に、俺は慌てて手を伸ばした。
「あのっ、俺っ…」
「ん?」
「えっと、そのっ…」
お礼をしたいけど、名乗らず去って行こうとする男に、こちらから無理やり名前や連絡先を聞いてもいいものか。
それに、これほど鮮やかに暴行未遂犯を制圧したこの男が、本当に味方だと信じていいものか躊躇うところも、一息にはその正体を聞けない一因だ。
「ふふ、お礼とか考えているんだったら、気にしなくていいから」
「えっ?」
どうして分かった。
そんなに顔に出ているんだろうか?
『へぇ、素直…』
クスッと笑った男の笑みは、俺にはどんな意味を持つものかは分からなかった。
「翼っ!翼っ?」
ふと、ようやく異変を察知してくれたのか。
火宮が七重を連れて、怖い顔をしてトイレ内に飛び込んできた。
ふわりと残り香を揺らして、男がするりとその脇を抜けていく。
「えっ…?あっ、待って…」
ふらりと伸ばした手は、入れ違うように目の前まで来た火宮の身体に、トンッと弾かれて止まった。
「ん…?って、翼、これは一体…」
ぐるりと俺の周囲を見回した火宮が、それぞれ一撃で床や壁際に伸びている男たちを見つけて眉を顰める。
「長いトイレだと思ったが、これはこれは…」
原因はこれか、とこちらも苦い顔をする七重が、ツンツンと靴のつま先で伸びている男の1人をつついていた。
「おまえが…?」
まさかな?と怪訝な顔をする火宮の目が俺に向けられる。
「はぁっ?違いますよっ。今出て行った男の人がいたでしょう?」
「男?そういえば?」
「俺っ、この男の人たちに女子だと勘違いされて。それで襲われかけていたところを、さっきの男の人が助けてくれたんです」
これをやったのもその人だ。
必死に訴える俺に火宮の頭がわずかに傾き、先ほどすれ違った男を思い出そうとしているのが、その表情からありありと分かった。
「一体何者だ」
「えぇっと、何もかもを聞きそびれてしまったんですけど」
「チッ。それぞれ1発ずつでこれだ。相当な使い手だぞ」
敵か。と呟く火宮の眉が、深く眉間に皺を刻む。
「顔が思い出せん…」
どんな奴だった?と俺に問う視線に、俺は男の容姿を思い浮かべようとして…。
「えっと…?あれ?」
魅力的な顔だ。目は大き…いや小さい?あれ?口元は?鼻は?背格好はどんなだったっけ…?
「思い出せません…」
やけに心を掴む、魅力的な顔をしていたような気はするけれど。だけどだからと、これこれこういう顔だというのが、今直前に見たばかりなのに、霧がかかったように思い出せない。
ただただやけに綺麗な男だったという印象以外、何も残っていないのだ。
「クソ。公安か」
「公安だな」
ふと、凶悪な舌打ちを1つ落とした火宮の吐き捨てるような言葉に、七重の頷きが重なった。
「こうあん…?」
耳慣れない言葉に、こてりと首が傾ぐ。
1度、確かあれは、アキと火宮が俺を巡って対峙していたときになんとなく、耳にしたことがあるようなないような…。
意味が分からないその言葉を視線で問えば、火宮が軽く苦笑いをしながら、ポンと俺の頭を撫でた。
「心配することはない。警察の1組織だ」
「け、いさつ…?」
「あぁ。国内の不穏分子…国家体制を脅かすような、工作員やテロ組織、一部の暴力団や宗教団体などを捜査したり、情報を収集したりしている部署だ」
「ほっぇ…」
「それらの対象リストにある組織を監視し、おかしな動きがあったら即行動を起こしてくる。潜入、違法捜査もお手の物の、警備警察」
「ほぇぇ…なるほど」
だからあんなに強くって、俺のピンチを助けてくれて、そのくせ印象には一切残らない存在感の薄さだったのか。
「ああいう空気を持っているのは、大体公安の潜入捜査官だな」
顔を覚えていないから確かなことは言えないが、と呟く火宮だけど、その声は確信に満ちていた。
「そうなんですね」
悪者でなかったのはよかったけど。
だけどそれが何で高校の文化祭?
キョトンとなった顔から、疑問が読み取られてしまったんだろう。
ククッと喉を鳴らした火宮が、ゆるりと七重に目配せした。
「俺が、七重の理事に就いたからだな」
「へっ?」
「その過程で少々、アレと大袈裟なやり取りをしてしまった」
「あぁ」
アレ。中国黒幇、六合会首領。
口パクだけで、ゆっくりと。俺にも分かるように述べてくれたソレと、火宮が俺を巡ってのあれこれを起こしたのは、まだ少々記憶に新しい。
「疑われてしまったんですか?『六合会』と七重組さんの繋がり」
武器…主に銃器の取り引きなど、その公安とやらに目を付けられる理由はあるのだろう。
何か意味があるんだろう火宮に倣って、ソレの部分だけを口パクにして尋ねた俺に、火宮はゆるりと首を振った。
「いや、確証は得られてないだろう。そんな下手を打ったつもりはない」
「うむ。確信があったら、そもそも翼くんのいる高校の文化祭に、わざわざ一般人を装って潜入など、してはこんだろう」
「そ、うなんですか…」
もしやまたもターゲットにされたのは、俺だったのだろうか。
偶然に入ったトイレで、偶然に襲われて、偶然居合わせたあの男が、偶然助けてくれたものと思っていたけれど…。
「あぁ。ひっそりとおまえに近づいて、情報収集、さらにはあわよくば協力者に、という狙いでもあったんだろうが…」
「えぇっ?」
「まさか俺が…いや、厳密にいうなら、オヤジがか」
「あぁ。俺が来訪しているなど、思いもよらなかったんだろうな」
ククッ、と楽し気に喉を鳴らす火宮は、同じく悠然と構えている七重と肩を揺らす。
「火宮は翼くんに一直線で気づかなかっただろうが、一瞬俺を見て瞳孔が開いたのを見ていたぞ」
「申し訳ありません。オヤジが一緒だったから、俺も少し油断したようですね」
「ふはは、だが甘い。俺の同行の情報を掴んでいなかったところと、一瞬だろうが隙を見せたあやつは、多分そこまで手慣れた諜報員ではない」
「そうですか…」
「だけど一応、真鍋に伝えて追わせるか」
「いや、それには及ばん。うちの護衛がすでに追跡中だろう」
ふはは、と豪快に笑う七重は、抜かりなく脇からスマホを取り出して見せた。
「さすがオヤジ」
「おまえに褒められると気持ちが悪い。それより」
「えぇ。翼」
「へっ?え?俺?なんですか?」
「脱げ」
どキッパリ。
突然の火宮の命令に、俺の口はあんぐり開いてしまった。
「な、な、な、何を言って…」
ここ、公衆のトイレ!七重の目の前!
どこをどうしたらその発言になるというのだ。
ジリジリと火宮から後退った俺は、またもコツンと洗面台に背中をぶつける。
「盗聴器」
「えっ?」
「仕込まれていないとも限らない。脱いで、服を水浸しにしろ」
「はいぃぃっ?」
いや、待って。そんなことしたら、リカが。リカが。リカが…。
「俺っ、リカに殺されますって!」
目の端吊り上げて「つーぅーちゃーん?」とドスの聞いた声で詰め寄ってくるリカ様の顔が瞬時に浮かび、俺はブンブンと両手と頭を振り回した。
「チッ、あんな女の言うことなどどうでもいい。いちいち隅々までチェックして盗聴器を探す方が面倒くさい」
つまりは見つけて潰せば済む話なのに、その手間が面倒だから服ごと駄目にしろと。
「暴論!」
「見落とすリスクもなくなる」
「リカに恨み言言われるリスクが高すぎて却下です!」
「チッ、ならば盗聴されていると仮定して、おまえの盛大な喘ぎでも聞かせてやるか」
それはそれで愉快だな、と言いながら、火宮の手が俺に伸びてくる。
「ちょ、ちょ、ちょ、待ったーっ!」
「待ったなしだ」
「トイレっ。ここ、トイレっ!」
不衛生だから。っていうか、その、せっ…する場所じゃないから。
そもそも、どうしてそういう方向に話が持って行かれているんだ。
ニヤリと吊り上がる火宮の口元に、グラグラと眩暈を感じる。
後ろで呆れたように肩を竦めている七重が、止めに入ってくれないことも絶対におかしい!
「仕置きだ、翼」
「はいぃっ?」
今度はいきなりなんなのだ。
思わず声がひっくり返った。
「誘惑」
「へっ?」
「ここに伸びている男たちに襲われたと言っていたな?」
「あー?えー、それは…?」
「この可愛いメイド姿で、ところ構わず誘惑してしまったからだろう?」
悪いやつめ、と呟く火宮の顔が、完全にサディスティックなそれに変わっていて。
「ちょっ、待っ、そりゃ、こんなことになると思わなくて。無防備に男子トイレに入った俺も悪かったですけど…」
「俺は忠告したからな?あっちじゃないのか、と」
「だからって、女子トイレに入れるかって言ったら、違うじゃないですかーっ」
それこそ痴漢だ。女装までして女子トイレに潜り込んだ、痴漢のレッテルが貼られてしまう。
「問答無用」
「だーかーらーっ、火宮さんっ!これは、不可抗力でっ…。ていうか、七重さん、こやつらは放っておけって!俺たちともども、襲撃者の処理をのんびり指示している場合じゃなくって!」
たーすーけーてー、と伸ばす手は、やれやれと竦められる七重の肩にぽんと跳ね返された。
「ご愁傷様だな、翼くん」
「ちょっ、本気でっ?見捨てないでくださいっ…」
「あぁ、うちの護衛が、2部屋隣に、空き部屋を見つけたようだぞ?」
「見捨てるどころか協力するなーっ!」
思わず、関東最大指定暴力団、七重組組長にまで、遠慮のない暴言がぶっ飛んでしまったところで、火宮の腕が、ぐいと俺の身体を引き寄せてしまった。
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