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第671話

       * 「んー?それで?つーちゃん」 にぃっこり。 笑顔なんだけど目がちっとも笑っていないリカの目の前で、俺は小さく身を竦めながらあらぬ方向に視線を流していた。 「これ、どういうことかな?」 ねぇ?と微笑むリカの目が、スゥッと鋭く細められる。 「これ」と言いながら、皺くちゃヨレヨレになった俺のメイド服をツン、と指先で突っついて、腕組みをして顎を逸らす仕草が、なんというかもう威圧感たっぷりだった。 「う、これは…」 ひくり、と顔を引き攣らせてしまう俺はあれから、火宮にぎゃんぎゃんと文句をいいつつも下着を身に着け、半ば諦めの境地でクラス模擬店へと戻ってきていた。 無事、この服に盗聴器などは仕込まれてはいなかったと確認できたはいいものの、あれ以上火宮といたら、また何をされるか分かったものじゃない。 案内は中止だと、火宮の元から逃げ出して、校舎内をあちこちうろついた挙句、結局行き着いた場所がここだった。 「あー、その、まぁ、色々あって?」 えへっ、と誤魔化し笑いを浮かべた俺に、リカの目元がキリキリと吊り上がる。 元々綺麗系の美人なリカのそんな表情は、かなり迫力がある。 「へぇ。色々、ねぇ?お化粧までずるずるに崩れるような、色々がねぇ」 つぅーっと意味ありげに送られる視線が痛い、痛い。 「ふっ、これは会長さんに、さらに倍の売り上げ貢献してもらわないとね」 にこりと口元を緩めるリカが、「この衣装代」とほくそ笑みながら、するりと店舗側の方へ視線を流した。 「え…?」 「外。また来てくれてるみたいだよ?」 リカの言葉にギクリとしながら、そーっとバックヤードと店内の境に引かれたカーテンの隙間を覗き込めば。 途端にキャァァッと割れんばかりの悲鳴と、美形ツーショット!ダンディなおじさま含めて至福の3ショット!などと上がっている叫び声が聞こえていた。 「な、んで…?」 まさか逃げた俺を追ってきたのだろうか。 ちらりと見る感じでは、どうやら今までずーっとこの店に居座ってくれていたらしい真鍋に、何か話し掛けに来ている様子だけれど。 「ふふ、これはぜひとも確保して、美形様、会長様ツーショット目当ての集客第2弾を開始しなくちゃね」 捕獲大作戦だ、と気合を入れてバックヤードを出て行くリカに、追及の手が逸れてホッとするような、呆れて物も言えないような。 「捕獲って…」 火宮さんや真鍋さんは珍獣か! 思わず1人で突っ込みを入れてしまいながら、意気揚々と出て行ったリカの後ろ姿を窺っていた俺は、ふと火宮たちに群がる人だかりの後ろの方で、静かに1人、席についてコーヒーを飲んでいる男を目に止めた。 「ん…?」 なんだろう? 特にごく普通の一般客で、これといって目立つようなことは何もない。 店内の空気に自然に馴染み、火宮たち目当ての客の騒ぎにかき消されてしまうような、むしろとても存在感の薄い人物なのに。 「っ…?」 ゆっくりとその男が立ち上がり、騒ぎの後ろで何事もなかったかのように会計を済ませて出て行く姿が…。 なんてことはない、本当に自然な、何も目に付くようなものではない姿なんだけど。 何かが妙に引っかかってたまらなかった。 「っ、待って…っ」 咄嗟にバックヤード側の外部との出入口に走った俺は、店内とは別のドアから廊下に飛び出す。 今出て行ったばかりであるはずのその男の後ろ姿は、すでにかなり遠くまで進んでいて驚いた。 「ちょっ、あの、そこのおにーさんっ、待って」 ヒラリと翻るスカートの裾が、相変わらず心許ないと感じながらも、俺は大股で廊下を駆ける。 パタパタと小さな足音を響かせて、手を伸ばして呼び止めた俺に、男はすぅっと自然にこちらを振り返った。 「僕…?」 きょとん、としながら、自分を指さして首を傾げる男に、俺はコクコクと頷く。 ようやく足を止めてくれた男にホッとしながら、俺は残りの距離を一気に詰めた。 「あの…」 「ん?どうしたの?あぁ、さっきのお店のメイドさんだね。僕何か忘れものでもしたのかな…」 えーと?と呼び止められた理由を考えているらしい男に、俺はようやく、何故この人物を追ってしまったのかに気が付いた。 『見知らぬ他人…初対面のふり』 「え…?」 ぽつりと呟いてしまった声は、どうやら男には聞こえなかったらしかった。 ジーッとその男の顔を見て、俺は確信する。 「あなたですよね」 「え?なにが?」 「トイレで、俺のことを助けてくれたの」 ぴしりと確信的に尋ねた俺に、男の顔はきょとんとしたまま動かなかった。 「トイレ?」 なんのこと?と首を傾げる男の、自然な。そう、あまりに自然すぎる仕草が、俺には逆に違和感たっぷりに映ってしまった。 「誤魔化しても分かります」 「誤魔化す?え?なにを?」 おろおろと、困惑したように顔を戸惑わせる男に、俺はずいと顔を寄せた。 「さきほど、店内で」 そっと囁きにも近い声量で、こそりと告げた言葉に、ようやく男の目が薄っすらと意志の光を宿した。 「店内で、1部のお客さんがあれだけ大騒ぎになっている傍らで、あなたはあまりにも平然としていた」 「……」 「まったく印象に残らず、薄い存在感で…。だけど、それが逆に、おかしな話なんです」 「うん?」 くしゃりと眉を寄せた男は、はやり、俺の指摘が正しいことを確信させてくれた。 「だってあれだけの大騒ぎ。騒ぎに乗じていないお客さんだって何人かいて、けれどその人たちは、多かれ少なかれ、その騒ぎに興味や関心を向けていて、チラチラと視線を送っていいるものです」 「なるほど?」 「そうでなければ無関係の鬱陶しい大騒ぎに、嫌な顔をするとか。だけど」 「あぁ…」 「だけどあなたの存在感はまるでなかった。そこにいるのにいないかのような。火宮さんや…真鍋さんにすら気づかれないように、ただ自然にあの中に溶けていた」 「っ…」 「あれだけみんながみんな、必ず存在感を示している中で、存在()たのにいなかった。そんな印象を残すあなたは普通じゃない」 「ふ…」 はっ、と息を吐き出した男の空気が、突然がらりと変化した。 「なるほど。さすが、と称するべきか」 ぶわっと醸し出された鋭い空気に、俺は反射的にパッと飛び退いた。 「自由に他人の印象を操作できる…。あなたは、公安の人?」 「ふ、火宮か」 「はい」 「鼻がいい」 くっ、と笑ったその感じは、なんだか人を小馬鹿にするときの火宮によく似ているような気がした。 「っ…」 「それで?僕がそれだとして、きみの…火宮の敵という立場になると思うんだけど、そんな僕をわざわざ単身で追ってきて、どういうつもり?」 「っ!」 するりと伸びてきた手から、俺はすんでのところで身を引いていた。 「へぇ。反射神経も悪くない。ねぇ、きみ。僕がこのままきみを攫って、火宮の情報をあれこれと吐かせることも出来ると思うんだけど」 「それはっ…」 「それとも、あの時助けた見返りに、きみの持つ蒼羽会、ひいては七重組の情報を要求、なんてしたらどうするの?」 冷たく目を細める男は、やっぱりどことなく火宮に似ていた。 「っ…」 「七重組本部理事、蒼羽会会長、その、唯一のパートナーで相思相愛の情人、火宮翼」 「っ、ぁ…」 「いつでもこちらは、きみの寝返りを待っているよ。その気が起きたらコンタクトを送ってくれ」 ふっ、と笑う男の空気が、またもがらりと色を変えた。 さっと身を翻すスマートな仕草が鮮やかだ。 「どうやらタイムアップだ」 ふわり、と空気に溶けるように気配が希薄になった男が、目の前から魔法のように消えていく。 「え…?あの…」 ふらりと伸ばした手は何もない虚空を彷徨い、それと同時に背後から「翼っ!」と叫ぶ、火宮の慌てた声を聞いた。

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