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第672話

「翼っ、大丈夫か?」 ハッ、と軽く息を上げ、俺の元に駆けよってきた火宮の、ほつれた前髪が珍しい。 「火宮さん?」 どうしたんですか?とその姿を見上げれば、眉間に皺を寄せた火宮が、軽く頭を振った。 「どうもこうも、裏にいると思っていたおまえがいなくなったと、あのリカとかいう女が」 「え…?」 「俺たちをもう1度店内に居座らせたければ、接客は翼を指名だと言ったら、いない、と」 「あ、あは」 「慌てて探しに出ようとしたんだが、さすがに真鍋を見飽き始めていた客たちが、今度は俺の進路を妨害しやがって…」 「ぷっ…」 あぁなるほど。それでもみくちゃにされかけて、無理やり振り切る際に服とか髪とかが乱れたわけですね。 「イイ男ですもんね。モテますよねぇ」 見た目だけなら。 思わず付け加えてしまう俺は、この美貌の男がどれだけどSで意地悪でエロいかを良く知っている。 ついでにヤクザの頭で、さらに上の組織の幹部だってことまで。 クスクスと笑ってしまったら、ようやく火宮の顔に余裕が戻った。 「翼」 「はい?」 「あの男。多分、公安の…」 「あぁ。本当に当たりだったみたいです」 「っ、なにかされたのか。言われたか?」 「あー、まぁ、はい」 「あいつ…っ」 不意に、ギロリと廊下の先に視線を向ける火宮は、俺が向かい合っていた男の姿をチラッとだけでも見たのか。 「寝返れと」 「は?」 「俺に、火宮さんを裏切って、おいで、ってそそのかして行きました」 うふふ、と笑ってしまう俺は、1ミリたりともそんな気はない。 「……」 「馬鹿な人でしょう?」 「そう言い切れるか」 「疑いますか?」 「ククッ、翼に限っては、ノーだな」 ニヤリと笑う火宮の手が伸びて、俺はその手にぐいと引き寄せられた。 「ご心配なく。俺があちらに情報を流すことも、あなたを置いて向こう行くことも絶対にありません」 「光だぞ」 「そうですか?」 「こちらは闇だ」 「ふふ、そうでもないですよ」 ぽすんっと火宮の胸に身体を預けてしまいながら、俺はすぅっとその誰より一番大好きな人の匂いを、胸一杯に吸い込んだ。 「あなたがいる場所が、俺にとっての至上の地」 今も、かつても、それはずっと変わらない。 たとえ世間の正義がどちらでも、悪が、闇がどちらでも。 「どこかの偉人も言っています」 「スタンダールか」 「ふふ」 きゅっと腕を回した火宮の身体から、誰より落ち着く鼓動がトクトクと伝わってきて。 「だけど、気を悪くしないで欲しいんですけど…あの男の人と火宮さんは、少しだけ似ていました」 「俺と?」 「はい。なんていうのかな…。あなたは向こうが光だと言いますけど…」 俺にはそう見えなかった。 具体的になにがどうと言われると困ってしまうけれど。 「そうか」 「はい…」 きゅっと抱き締め返してくれた火宮には、俺の言いたいことが伝わったみたいだった。 優しく伝えられる体温が、泣きたくなるほど心地いい。 「おまえが…っ、いや。愛している、翼」 「え?」 またなんだ、唐突だな。 「愛している、翼」 ふっ、と緩く笑った火宮が、あまりに優しい顔をするから眩しくて。 へにゃりとつられ笑いをしながら目を閉じた俺の唇に、甘い吐息が重なった。 「このぬくもりが、俺のすべてだ」 ぎゅぅ、と巻き付いた火宮の腕が、俺への執着心を語っていて、それがなんだかとても嬉しくて。 「俺も。これ、俺の」 うふふ、と笑いながら、ぎゅぅ、と強く抱き締め返した俺に、火宮の目が、鮮やかに弧を描いた。 「それにしても、公安か」 「火宮さん?」 「蒼羽会(うち)は、ここ最近、新入りといえば豊峰くらいで、他を加入させてはいないが、下は怪しいな…」 「え?」 「3次団体や友好関係にある組に、ねずみが潜り込んでいないか」 「っ…」 「徹底的に洗い直そう」 ぎらりと視線を鋭くする火宮は、やはり1組織を束ねる長の顔をしていて。 その姿がまた格好良く見えるんだから、俺はすでに重症だ。 「潜入捜査官かー」 「うん?」 「ねぇ、じゃぁもしかして、逆もありとかじゃないですか?」 「逆?」 「ほら、俺は火宮さんたちを裏切るつもりは一切ないですけど、裏切ったふりをして俺が警察側に潜入するんです!」 「……」 ドヤ、と胸を反らせた俺に、火宮の胡乱な目が向けられた。 「なんです?」 「嘘のつけないおまえが?」 「あーっ、なんですか?俺だって、潜入くらい!それで、火宮さんたちに有益な情報を、バンバン抜いてきてですね…」 「クッ、スパイ映画かなにかの見過ぎだ」 「でもっ」 「安心しろ。おまえのようなへっぽこに頼まなくても、向こうの情報くらい…」 「え…?もしかしてすでに、あっちにねずみ…」 「ククッ、さぁてな?」 真鍋にでも聞いてみたらどうだ?と嘯く火宮は、イエスともノーとも悟らせてはくれなくて。 「えーっ、そこ、詳しく!聞きたいです!知りたい!」 「クッ、おまえは余計な情報を持たない方がいい」 「え…?」 「ちゃんと護らせろ」 ニヤリ、と笑う火宮の、その笑みに、きゅうぅぅっと心臓を鷲掴まれた。 「ず、るいです、よねっ!」 なにその格好いい台詞。 そんなのに誤魔化されないんだから。絆されたりしないんだから。絶対にしないんだから…くぅっ。 「好き」 「ククッ、なんだ。熱烈だな」 「好ーきーでーす」 「その言い方は癪に障るな」 「大っ、好き」 ぎゅぅっとしがみついて、えいやっと体重を押し付けて、火宮に全身を預けてやる。 「っ、と」 ひょいと危なげなく俺を支えたその腕が、もう本当、頼もしいったらありはしなくて。 「ククッ、俺も、愛している、翼」 「っーー!」 だからっ。それがズルいんだって。悔しいなぁ、もう。 ふわりと緩む火宮の表情に、なんだかもう堪らなくなって、俺はへにゃりと締まりのない顔を晒し切った。 「さて、それじゃぁ第二ラウンドと行くか」 うっかりその気になってしまった火宮に見下ろされた、ヨレヨレのメイド服姿の自分を思い出して、悲鳴を上げるまで、残り何秒だっただろう。

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