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第674話

「んっ…」 緩やかな目覚めに、全身を包む重苦しい倦怠感。 ふわりと鼻を掠めるのは、リビングの方から漂ってくるコーヒーの香りか。 ぼーっとする頭で惰性的に身体を起こしていけば、はらりと掛け布団の落ちた裸体が露わになった。 「って、うわぁ…。今日もびっしりと主張してくれてるな…」 胸元から腹にかけて鮮やかに散るのは、火宮の独占欲と所有の証。 昨夜、激しくしつこく強烈に抱かれた名残が、これでもかというほどに、裸の身体に刻み込まれていた。 「今日は学校が休みで良かった…」 この、どうにも怠い身体と、腰の奥に残る鈍痛を押して、登校すると考えるだけで萎えてくる。ましてや一日中、学校の椅子に座っているなど、ただの拷問にしかならないところだった。 文化祭の振り替え休日万歳だ。 「ふぁぁっ、火宮さんは仕事か」 微かな物音がするリビングでは、珍しくのんびり出勤の火宮が、コーヒー片手に今日のニュースでもチェックしているんだろう。 薄く開いたドアの向こうに、優しく人の気配がする。 「たまにはお見送りするか…」 気怠い身体を引きずって、ベッドからそろりと抜け出す。 脱ぎ捨てられた部屋着を拾い、身につけてからリビングへのドアを開ければ、思った通り、火宮がワイシャツにネクタイ、ばっちりと髪を整えた仕事スタイルで、コーヒーの湯気を揺らしていた。 「おはようございます」 「あぁ、おはよう。早いな」 「そうですか?火宮さんが遅いんじゃ…」 いつもなら、とっくに家を出ている時間のはずだ。 「ククッ、いや、今朝は、昼近くまで起きられないかと思っていたからな」 だから早い、と。 スゥッと薄く細められる目が、「昨日散々抱き潰してやったはずなのにな」と語っている。 「朝からセクハラ発言です。意地悪っ」 せっかく出勤前に間に合ったから、見送りをしてやろうと起きてくればこれだ。 本当、相変わらずな火宮に、ズンズンと近づいて行き、その胸元のネクタイの結び目をグイと掴み上げてやる。 「翼?」 「ふんっ、だ」 ギロッと下から火宮の意地悪な顔を睨み上げ、つい、とつま先立ちになってやる。 その俺の行動を見下ろしていた火宮が、ふと意図を察したらしく、その目がはらりと軽く見開かれた。 「ふふん、ざまあみろです」 驚いてる、驚いてる。 どうせ文句を喚いて、絡むとでも思ったんだろう。 でも俺だって、そうそう火宮の予測通りには動いてなんかやらないんだから。 「ククッ、おまえは、だから、本当に」 男前だな、と笑う火宮の顔が、ゆったりと俺の顔の上に覆いかぶさってきた。 「んっ…」 意図したキス待ち顔で、ゆったりと火宮の口づけを受け取り、そっと目を閉じていく。 ふわりと鼻を掠めたのは、火宮が直前まで飲んでいたらしいコーヒーの香ばしさで。 薄く開いた唇の間から侵入してきた舌からは、微かな苦みと甘い火宮の唾液が、じんわりと口内いっぱいに広がった。 「んっ、はっ…」 散々絡め合った舌がするりと解け、スッと離れていく唇と唇の間に、ツゥーッと唾液の糸が引く。 名残惜しく差し出した舌でそのキスの残滓を掬い取れば、火宮の目にギラリと小さな欲望の火が宿った。 「クソ。さすがに出勤時間だ」 これ以上は遅らせられない、と悪態をつく火宮が可笑しい。 タイムアップを惜しむその姿に、俺は何気に満足だ。 「くすくす、お迎え、来ちゃいますもんね」 「まったく。ここで翼を抱いて時間が押せば、あの小舅に何を言われるか分かったものじゃない」 「1日中小言を言われ続けますよね、きっと」 ベッと舌を出して悪戯に微笑んでやれば、苦々しい笑みを浮かべた火宮に、コツンと頭をぶつ仕草をされた。 「確信犯か?」 「いいえ、まさか。たまたまです」 「ふっ、だが最近、おまえの男らしさも侮れないからな」 押されてばかりの俺でなくなったんなら、なんだかちょっとだけ嬉しいな。 「俺も男ですから」 「そうだな。おまえからのプッシュもなかなか。魅力的だ」 「ふふ、対等に、なりたいんです」 与える愛の大きさも、受け取る想いの強さも全部。 「クッ、それは無理だな。俺の方がおまえを愛してる」 「むっ?そんなことありませんよ。俺だって、火宮さんが愛している気持ちより指1本分多く、火宮さんを愛してますもん」 「ほぉ?ならば俺はそれよりさらに指1本分多くだな」 「ちょ…っ、それじゃぁいつまで経ってもいたちごっこじゃないですか…」 「ククッ、おまえが折れろ」 「はぁ?やですよ。やですけど…でも、じゃぁ、同じだけ」 「ん?」 「俺は、火宮さんが俺を愛してくれる想いと同じだけ、火宮さんを愛しています!」 ドヤ。 これならどちらに勝ち負けも優劣もなく、互いの想いが同じ熱量で行き来できる。 「ククッ、朝から熱烈な愛の告白をありがとう」 「へっ?え?あ…」 うわぁっ!ついつい口車に乗せられて、うっかり何を恥ずかしいことを大宣言しているんだ、俺は。 「っーー!確信犯っ」 「ククッ、光栄だ」 「褒めてませんっ!」 あぁもう本当、この人にはやっぱり敵わないのか。 ああ言えばこう言う、目には目を、の典型だ。 「ククッ、やはりおまえは…」 「なんですかっ」 「いや、愛おしいと思ってな」 「は…?」 あーっ、もう、本当に、なんなのさ。 そんな慈しむように目を細めて、幸せそうに笑っちゃったりしてさ。 ボンッて熱くなった俺の顔は、きっともう真っ赤だろう。 「翼?」 「っ、っ、っ…真鍋さんがいたらっ、このバカップルが、って怒られますよっ」 「ククッ、違いない」 「はやく、出勤したらどうですか」 もう見送りはお終い!とっとと仕事でもなんでも行ってしまえ。 恥ずかしさのあまり、つん、とそっぽを向いてしまえば、ククッと楽しげに喉を鳴らした火宮が、コトンとコーヒーカップをキッチンのシンクに置きに行く姿が横目に見えた。 「行ってくる」 横をすれ違い様、ぽん、と頭に触れた手が優しい。 じんわりと伝わってくる愛情に、トゲトゲした気持ちは一瞬でぽわんと丸くなり、はっと視線を戻した俺は、慌てて去っていく火宮の背に声を投げる。 「行ってらっしゃい!気をつけてくださいっ」 「クッ…」 ん、とこくりと頷いた頭を見送り、俺はにやぁっと緩んでいく顔をどうにも止められなかった。 幸せに匂いがあるのなら、ふわりと俺を包み込む火宮の香りで。 幸せに色があるのなら、火宮の纏う闇色に溶ける俺の肌の色。 幸せに形があるのなら、きっとそれは、あの優しく俺を愛おしそうに見つめる火宮の綺麗な顔をした火宮の形をしていて…。 「ふぁぁっ、幸せだなぁ…」 吐息と共に吐き出した言葉が、ゆるりと朝の陽ざしの中に溶けていった。

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