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第682話
その後、少し寝る、と言って本当に寝室に籠ってしまった火宮は、やっぱり睡眠不足を誤魔化し切れはしなかったんだろう。
食事の片づけをして、少し様子見にとこっそりと覗いた寝室のドアの向こうで、俺の気配にも気づかずに、ぐっすりと寝息を立てていた。
「ん…。やっぱりお疲れなんじゃん。本当、それでも俺を揶揄うのは忘れないんだからな…」
どS、とぽつりと落とした声は、静かにリビングの空気に溶けていく。
「でもまぁ、ここにいる間は…。ここにいられる時間は、ゆっくり休んでください…」
そっと願うように囁いて、俺はそぉっと寝室のドアを閉じていく。
パタン、と静かに扉が閉まったのを確認して、俺はホゥと小さな溜息をついて、その場にしゃがみ込んだ。
「火宮さん…。刃」
ぐ、と喉を逸らせ、ゴン、と後頭部を扉に押し付ける。
立てた膝の上に乗せた肘を支えにして、両手のひらで顔面を覆った。
小さく丸まった体操座りのような体勢になりながら、ゆっくりと瞳を閉じていく。
「あぁ…。あなたが、こんな疲れた姿を晒すほどに、何が起きているんですか?」
事件について、一言も口にしなかった火宮を思い浮かべる。
「犯人は?狙いは分かったんですか?被害はどれくらい?火宮さんが無事なことは分かってる。部下の人たちにも死者が出てないってことも。でも、レストランの件はどうだったんですか?まだ危ない?狙われる可能性はある?事件は続く…?っ…」
聞きたいこと、知りたいことはたくさんある。
油断すれば口をついて出てしまいそうなたくさんの疑問質問は必死で飲み込んだ。
「あなたが何も言わないから…」
っ…。
ぎゅぅ、と結んだ唇が、ふるりと震える。
「家にいる間くらいは、解放されたいんですよね?忘れていたい」
一度それを話題に上げれば、どう考えたって殺伐とした話になるだろう。それこそ不眠不休の勢いで何日も、対策と対処に駆けずり回っている日々が続いている中で、ここでも。
ようやく帰って来れた自宅で、俺とまで、そんな息苦しい話題で気が詰まる時間を過ごしたいわけがないはずだ。
「あなたの、ほんの少しの息抜きに、なればいい…」
ヤクザな火宮の、羽休めになる場所がここならば。
「少しだけでも、癒しになるのなら…」
俺に出来ることは、火宮が望むまま、ただ無邪気な恋人として、あなたの悪戯に乗ってあげること。
いつも通りの、笑顔で、膨れた顔で、強気に食って掛かって、時に甘ったるく口づけを受け入れて。
「っ…分かってるっ」
くしゃり、と歪んだ顔は自覚した。
「俺は自分が何者か。俺の役目はなんなのかっ」
ドンッ、と床に落ちた手が、そのまま床を殴りつけた。
「分かってる…。俺が、あなたの領分に踏み込まず、ここでこうして、あなたの休息の地であるべきだということは…っ」
だらりと落ちた両腕は、そのまま力なく床にぺとりと触れた。
「俺が無事に、安全で、この籠の中にとどまっていること、それだけで、あなたの心労を1つ減らしてあげられてる。分かってる。分かってるんだ。あなたの足を引っ張らないために、俺がどうしていればいいかってことくらいっ…」
だけど。
「だけどっ…。あなたや、真鍋さんが、ギリギリの命のやり取りをしている傍らでっ…俺に出来ることが、あまりに少ないっ」
じわり、と目に滲んだ液体は、悔し涙か、己への怒りの沸点か。
「死と隣り合わせで戦っているあなたに、俺が、できることは…っ」
ただ祈ること。無事を願うこと。ただ、それだけしか。
「俺は、蒼羽会会長、七重組本部理事、火宮刃。その、最愛の恋人。パートナー」
だからこそ、下手に首を突っ込んではいけないと分かってる。
俺は俺で無事でいなくちゃいけないことは、痛いほどによく分かっているんだ。
やみくもに「そちら側」に足を踏み入れちゃいけない。
だって俺は、「蒼羽会会長、七重組本部理事の、パートナー」なんだから。
わきまえてる。理解している。分かってる。
俺は、俺の立場を、しっかりと。
ぎりっと食いしばった歯が軋んで、滲んだ涙は眦に留まったまま、すぅっと静かに吸収された。
「俺は、火宮翼だ」
忘れるな。見失うな。
ぐ、と腹に力を入れて、自分に強く言い聞かせる。
「あなたが起きたら、美味しいコーヒーを淹れて。笑顔で行ってらっしゃいと送り出す」
気を付けてください、と、何より本音の、願いを込めて。
「そうだ。出来る」
俺は、やれる。
座り込んでいた足に力を込めて、ゆっくりと床から立ち上がる。
こんなところで蹲って夜を明かしたりしたら、それこそ火宮に無駄な心配を掛けてしまう。
だから、しっかりと風呂に入って、しっかりと睡眠を取って。
火宮に何一つの心配もさせずに、朝を迎えるんだ。
あなたの、煩いに、俺はならない。
ふわりと足を踏み出して、そっと離れた寝室のドア。ゆるりと一度だけ振り返ったそのドアの向こうでは、物音ひとつ聞こえなかった。
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