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第683話

翌朝。よくもまぁ、この状況で、熟睡できたと思う。 俺は自分の神経の図太さと、あまりの情けなさに、ベッドに身を起こした状態で頭を抱えていた。 「とっくに出て行った、か…」 そろりと触れたベッドの隣の空きスペースには、もう僅かの温もりも残っていなかった。 夜。それも大分遅くなってから、風呂を済ませ、スマホでの情報収集を済ませ、こっそりと滑り込んだ、火宮が眠るベッドの隣。 いつもなら、俺がいくらこっそりと近づこうと、火宮にはすぐに気配を察知されてしまうと言うのに、昨日に限っては、俺がギシリとベッドに乗り上げようが、隣にするりと滑り込もうが、スースーと静かな寝息を立てたまま、火宮が目を覚ましてしまうことはなかった。 「熟睡…出来てたんならよかったけど。それと一緒に、俺も熟睡しちゃうとか、どんだけっ?」 はぁっ、と落ちる溜息は、今朝方…多分、朝までは寝ていてくれたと思いたい火宮が、目を覚ましてベッドを抜け出し、家を出るまでずっと、まったく気配に気づかなかった自分に対する呆れだ。 「朝、目覚めたら、美味しいコーヒーを淹れて、行ってらっしゃいと笑顔であなたを送り出す」 はずだったのに。 「あ゛ぁ゛ぁーっ」 本当にもう、何をやっているんだか。 抱えた頭をガシガシと掻き毟り、俺は一縷の望みをかけてそぉっと寝室を抜け出した。 けれど。 「やっぱり、いるわけないか」 ベッドを出て行っただけで、リビングにいたりしないかなー、という望みは、シーンと冷たい空気を纏う無人の室内に、あっけなく砕け去った。 朝食を食べた痕跡はない。毎朝飲んでいくはずのコーヒーの香りもしなければ、テクテクと向かったキッチンに使用済みのカップが置かれていることもなかった。 「寝る時間を確保できないほど忙しいって言ってたもんな…」 それでも今日は、ちゃんと朝まで…日が昇るまで寝られたんだろうか。 気配にまったく気づかなかった俺が、火宮の出て行った時刻を知る術はないけれど。 「そうだとしたら5時間は寝れたよな」 どうかそうであって欲しいと願いながら独り言を呟く。 「はぁっ。状況は、まったくわからないけど…」 一体どこまで調査が進んだのか。今日にも犯人を突き止めて、この穏やかでない日々が終わりを告げてくれるのか。 「俺は…」 なにもできないまま、また今日ももんもんと、この室内に引きこもっている1日が始まる。 せめてもとつけたテレビでは朝のニュースが、あれやこれやと報じられている。 どこぞの路上で事故が起きただとか。どこぞの政治家が失言で謝罪コメントを出しただとか。 芸能人のだれだれがSNSで炎上したとか、野球の試合でどこが勝っただとか。 画面の向こうから報じられる非日常の中に、ぽつりと火宮たちの事件も小さく報道される。 「あれから、別の爆発は起きてないんだ…」 捜査に進展なし、という報道がされるそれは、あの日と翌日に連続で起きた、蒼羽会事務所と、レストランと車爆破の件に留まっている。 「よかった…。って、手放しに喜ぶにはあれだけど、でも、別の犠牲が出ていなくてよかった。そっか。捜査、進んでないんだ。証拠も少ない…」 継続して犯人の特定と目的を捜査…と続くアナウンサーの言葉からふいと意識を逸らし、リビングのテーブルに置きっぱなしになっていた真っ暗なスマホの画面を見下ろす。 「は…っ。世間一般の人と同じだけの情報しか入らない」 俺は関係者なのに。当事者たちのとても近いところにいる人間なのに。 状況を知らせてくれるのは、大衆向けのテレビ報道しかないなんて。 くしゃり、と握り締めた拳が震え、だけどそれを追及してしまったら、きっと火宮を煩わせることになってしまうだろうから。 ぐっ、と我慢した波立つ感情を、ごくりと腹の奥に飲み込んで、俺はとりあえず、物理的にも何か腹の中に入れようかと、再び、今日は使った形跡のないキッチンへ足を向けた。            * 「ふはぁっ。朝から食べたー」 トーストにサラダ、オムレツに具たっぷりスープ。 まるで憂さ晴らしかというように、朝からがっつりと朝食づくりに励んだ俺は、その全てを平らげて、リビングのソファーにどっかりと腰を下ろしていた。 「んっ…」 腹が満たされて、少しだけささくれだった気分も解消したような気がする。 ぼーっと見つめるテーブルの上には、相変わらず真っ暗な画面のままのスマートフォンと、積み上げられた教科書やノートや参考書の類。 暇つぶしにちょこっと眺めていた料理本が、ぽいっと乱雑に放り置かれている。    「さてと。今日も外出禁止令は解かれてないし。やることと言ったら、勉強ー?」 やだなぁ、と思いながらも、あまりさぼって後々苦労するほうがいただけない。 「授業はどの辺まで進んだんだろう?」 バリバリの進学校。受験を意識し始める高2の2学期半ば。そんな時期に授業進度が落ちるとは思えないし、多分、むしろ、きっと、ペースアップしているに違いない。 「紫藤くんに聞いてみようかな」 聞かされてはいないけど、多分豊峰も学校を休まされているような気がする。 一度、内線で浜崎に連絡を取った際、後ろで豊峰の声がしていたような気がするのだ。 あれは昼間。普段ならば学校にいる時間帯だった。 「あわよくば、ノートのコピーなんか、もらえたりしないかな」 成績に関しては、お互い、互いをライバルだと思っている紫藤に頼むには図々しいお願いだろうけれど。 だけど、あの万年1位をキープしていたという秀才様のノートが手に入ったら、そんなに心強いこともない。 「とりあえずメッセージを…」 あまり人に教えるな、と言われている携帯番号だけれど、紫藤やリカ、タクトやノリたち数人とは、きちんと真鍋の許可の下、番号交換をしているのだ。 真っ暗なまま、光る気配もないスマホをひょいと取り上げて、俺はポチポチと紫藤に授業進度を尋ねるメッセージを送りつけた。 「っ…」 ほんの数分で、そのメッセージに返事が来る。 ご丁寧に全教科、教科別に進んだ教科書のページ数から、簡単な授業内容、そして今日の予定が一覧になって送られてきた。 「うわー。やっぱり数学は進むよな…英語も」 毎日1コマ、下手をすれば1日に2コマ、時間割に組まれている数学と英語の進度がえげつない。 「たった2,3日でこれは怖い」 このまま欠席が長引けば、またまたあの退学復帰時の鬼家庭教師のレッスン再びという目に遭うんじゃなかろうか。 「な、なるべく独自に勉強しておこう…」 ついでにどうか授業のノートをお恵み下さいと、紫藤に懇願メールを送る。 「早っ…」 今度はものの数秒で戻ってきた紫藤の返事は、ありがたいことに快諾の意と、なんなら届けようか?という親切極まりない内容だった。 「ありがたいー。でも、うちに来られるのは困るな…。下手に巻き込みたくないし」 このマンションが犯人の標的に含まれているのかは分からない。 そもそも俺の存在を知っているのかも、狙っているのかもわからないけれど、用心するに越したことはないだろう。 「浜崎さんか誰か…あっ、それこそ豊峰くんに、お使いしてもらえないか聞いてみよっと」 紫藤には、こちらから受け取れるように手配してみるから持っていて欲しい旨と、後でまた連絡すると書いたメッセージを送る。 無事、そのメッセージに「了解」の絵の文字が返ってきたところで、俺は壁の内線電話の元へ歩いて行った。

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