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第685話
*
バタン。
派手な音を立てて、リビングのドアが大きく開かれた。
「翼っ、いるな?無事だな?」
珍しく足音まで立てた、スーツ姿の火宮のお出ましだった。
「あ、おかえりなさい」
キッチンに立って、夕食の支度をしていた俺は、ひょっこりとリビングの方に顔を出して、そんな火宮を出迎える。
「はぁぁっ」
くん、と鼻を動かした火宮は、漂うカレー臭に気が付いたのだろう。
何とも言えない顔をして深い吐息をつきながら、ふわりと浮かぶ苦笑がらしくなかった。
「火宮さん…?」
「いや。ククッ、俺も随分と神経が張り詰めていると思ってな」
「火宮さん…」
「無事に決まっているのにな。そのために、おまえの安全は最大限に確保してある」
あぁ、なるほど。だから、俺が呑気に、カレーなんて煮込んでいたものだから気が抜けた、と。
「大丈夫ですか?」
今日も今日とてまた爆破騒ぎがあったわけだし。
ぐい、とネクタイの結び目を緩めながら、どさりとソファーに腰を下ろす火宮の様子は、見間違えようもなく疲れている。
「ふっ、心配ない。おまえはなにも気にしなくていい」
ふわり、と微笑む火宮の顔に、くしゃりと胸のどこかで何かが小さく潰れる音がした。
「っ…」
「翼?」
「っ、今日…俺の通っている学校、爆破されたんですよね?」
駄目だ。それ関連の仕事で疲れ果てて帰ってきている火宮に、その話題を振っては駄目だ。
分かってる。頭では分かってる。
分かっているのに、口が止まらなくて。
「っ…」
ごめんなさい、と口にしようとした、その瞬間。
不意に火宮のスマホが音を立て、俺はぐ、と唇を引き結んだ。
「っと、悪い、真鍋からだ」
出るぞ、と言い置いて、火宮がスマホを耳に当てる。
その声がじりっと低くなり、ぴりりと火宮の空気が張り詰めた。
ぎゅっと眉間に皺をよせ、難しい顔になっていく火宮を見つめながら、俺はそっと通話が終わるのを待つ。
そうして数分、何やら会話を交わした火宮が、通話を切って俺を振り返った。
「あ…。あの、何かあったんですか?」
盗み聞きしていたわけではない。だけどこの距離だ。
途中、「また爆破が」とか、「本家に予告が?」とか漏れ聞こえてきたのが分かっている。
なのに火宮は、ふっと小さく微笑んで、軽く首を左右に振った。
「何でもない」
「っ、だけど…っ」
何でもないわけないじゃないか。
「大丈夫だ。おまえは何も心配しなくていい。こちらのことはこちらでやる」
「っ…」
あぁ、また、だ。
くしゃり、とまた何かが、胸の中で小さく潰れていく。
「安心しろ。おまえは俺が必ず守るし、犯人には必ずこちらで決着をつける」
するりとソファから立ち上がる火宮が、緩めたはずのネクタイの結び目を、再びゆっくりと締めていくのが見えた。
「ま、って…。待ってください。あのっ、だって、でも…」
「なんだ」
分かってる。それが火宮の愛情で、気遣いなんだと分かってる。
分かってる、けど。
「っーー!俺っ…俺にもっ、何か出来ることはありませんか?何か手伝えることは…」
きゅっと拳を握り締め、リビングに駆け出した俺は、じっと火宮に目を向けた。
「ふっ、大丈夫だ、翼。こうして窮屈な中、登校を諦め、ここに大人しく居てくれるだけで、十分だ。それすらも本当はすまないと思っているくらいだ」
ふわりと伸ばされる火宮の指先は優しい。
優しくそっと、俺の頭を撫でていくその手から、愛情が確かに伝わってくる。
だけど。
「そんなのはっ…!だって俺は蒼羽会会長の、あなたのパートナーなんだ。足手纏いにならないように、学校を休むくらいなんてことない」
当たり前だ。当たり前のことなんだ。
だから。だけど。
それしか出来ない。もっと火宮のために、蒼羽会のみんなのために、何か。
出来ないのか。近づけないのか。
それが悔しくて歯痒くてたまらない。
「翼。俺は…」
ふと、火宮が何か言いかけたとき。
再び火宮のスマホが着信音を響かせた。
「っ…」
画面を見下ろした火宮が、「クソッ」と汚い言葉を漏らしながら、またもくるりと俺に背を向ける。
怒鳴るように何かを2言3言電話の相手と交わした火宮が、苛烈なオーラを身に纏い、ニヤリと唇の端を吊り上げた。
「人を小馬鹿にしやがって…」
凄惨な表情をして振り向いた火宮が、またも出ると言い放つ。
「っ、なら、俺も様子を…っ」
「おまえはここにいろ!誰かを寄越すから、この部屋から出るな」
「っ…」
思わず追い縋った俺に、ぴしゃりとした火宮の声が響いた。
びくりと竦んだ身体がその場に止まる。
「七重の本家に不審物だと?随分と行動が早く、手回しがいい…」
見てろよ、と不敵に笑いながら、イライラとささくれだったオーラを纏って火宮がリビングを出て行ってしまう。
「あ……ぅ」
ふらりと伸ばした手は虚しく行き場を失くして、ただダラリと身体の横に落ちる。
サッとスマホを持ち上げたのだろう火宮が「池田か?」と電話の向こうに話し掛ける声が聞こえて、ゆっくりと遠ざかっていった。
「っ…」
分かっている。俺がついていっても何も出来ないこと。
分かっている。俺が火宮の側でウロチョロするほうが危険で、足手纏いになるんだってこと。
分かってる。
ここで。この部屋で、じっとしていることが、俺に出来る唯一のこと。
俺の役割で、俺がすべきこと。
「分かって、る…っ」
くしゃりと握り締めた拳が震え、ふわりと場違いに、煮込んだ美味しそうなカレーの匂いが鼻の前を横切った。
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