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第686話
それから2日。またも火宮が帰らない日々が続き、1人で引き籠ること3日目のことだった。
ピンポーンと鳴り響くチャイムの音。
「え…?」
この部屋に来るのは、火宮でなければ、真鍋や浜崎、豊峰といった誰もが静脈認証されている限られた人間しかいないはずだ。
わざわざインターフォンを押すような人物に心当たりがない…と、室内モニターを覗いたところで。
「え?誰?」
キャップを被った、いかにも構成員っぽい様相の男…。
かと思いきや。
「あ、アキさんっ?」
俯いていた男が、ゆっくりと持ち上げていった顔。その、モニターに映し出された顔は、構成員ぶった変装をした六合会の明貴で。
しかもインターホンが鳴らされたのは玄関扉の前。
つまりは指紋認証のエレベータをなんなくクリアしてきたらしい、黒幇の首領様だった。
「ちょっ、なんで?どうしてっ?」
クスッ、なんて笑い声が聞こえてきそうな、悪戯っぽい明貴の表情が画面に映る。
「エレベーター作動の件?それだったら、私たち黒幇に掛かれば、火宮の指紋を秘密裏に手に入れ、加工してセキュリティを突破するくらい簡単だ」
「じゃなくって!」
「インターフォンを押したこと?それは、さすがに静脈認証は難しかったから」
「でもなくて!」
「んー?とりあえず、ここ開けてもらえない?」
にこっ、と無邪気に笑うアキの顔だった。
「あ、はい」
あまりの無邪気さにつられて、思わずうっかり開錠してから気が付いた。
「っ!あ!」
「ふふ、こんにちは。久しぶり、翼」
にっこりと、開かれた玄関扉の内側に足を踏み入れたアキが、鮮やかに微笑んだ。
「ぎゃぁ!ヤバイ!まずい!」
「どうしたの?」
「っーー!俺っ、今、ちょっと色々とあれで。玄関、誰が来ても内側から開けちゃ駄目だって、言いつけられていたんだった!」
それが、何をやってるんだろう。
いくら知人で、無邪気な顔をしているからって、相手は黒幇の首領。
完全に味方だと知れない、明貴をこうもあっさりと家の中に招き入れてしまうだなんて。
「ヤバイ、ヤバイ。バレたらオワル。お願い!ごめんなさい!アキさん、出て!」
ぐいーっとアキの身体を玄関の向こうに押し返そうとしながら、俺は必死にその顔を見上げた。
「えー?せっかく開けてもらえたのに。嫌だよ」
「うー。嫌じゃなくてですね、こんなことが知られたら俺が…」
「ふふ、大丈夫。ねぇ、そんなことより、私と遊びに行かない?」
コテン。無邪気な笑顔のまま、あまりに無邪気に言い放たれた一言を、俺は一瞬理解できなかった。
「は…?」
ポカンと口を開け、思わず思考停止してしまった俺に、アキの楽しげな目が向く。
「だから、お出掛け。このところずっと、部屋に引きこもりっぱなしで、退屈してるでしょう?」
ねぇ?と首を傾げるアキはさすが六合会首領様。こちらの状況はすべて調査済みと言うわけか。
「っ…なら」
分かるはずだ。今、俺が、その誘いにフラフラと乗るわけにはいかないこと。
「ねぇ、せっかくたまたま来日する用事があって、しかもわずかとはいえプライベートな時間が空けられたんだ」
「いや、あの…」
「前回の来日で出来た友人に…翼に、会いに来て、遊びに行きたいって思うのはいけないこと?」
「いえ、いけなくはないです…だけど」
「じゃぁいいじゃない。行こうよ」
スッと差し出される手は、あまりにあっけらかんとしていて、紡がれる言葉は流暢な日本語なのに、上手く理解ができなかった。
「いや、あの、だから…」
「ん?」
「ん?じゃなくてですね…」
「ふふ、じゃぁ、火宮のためか」
にっこりと鮮やかに微笑むアキの笑顔に、俺はぐ、と唇を噛み締めた。
「相変わらず、健気だねー」
「なんとでも、言ったらいいです」
それでも、俺が今、するべきことは、この場に留まり、火宮の心を僅かも煩わせないことだから。
「さすがは蒼羽会会長、七重組理事の情人だ。でもね、翼」
「何ですか」
「ならばなおさら、私と来ない?」
「え…?」
いやだから、何を言っているんだ、この人は。
怪訝な思いは、そのままダイレクトに顔に出たんだろう。
クスクスと可笑しそうに笑ったアキが、ぷにっと俺の頬っぺたをつついてきた。
「その顔。語るね」
「いや、あの、アキさん?」
「だからね、翼が火宮を、煩わせたくないと言うならば、ここから離れて、私といない?」
「えーと……?」
「守るべき場所が1つ減れば、その分火宮は身動きが取り易くなるよ」
「あの、それってどういう…」
アキが操っているのは流暢な日本語だ。けれどその言葉の意味が分からない。
「んー?だから、私が翼を完璧に護ってあげる、って言ってるんだ」
「はい?」
「分かってるでしょう?うちの護衛が、火宮のところの護衛より、ずっと有能で腕も立つこと」
「それは…」
以前に拉致されたときも思った。
そして今も、火宮が採用している蒼羽会のセキュリティーを、アキたち黒幇に易々と突破され、アキにここまでの侵入を許していることでも知れている。
「どちらの能力が上かは明らかだ。その私といれば、翼はなにより安全だよ。そうすれば火宮はここに翼を護るための人員を割かなくてもいいし、このマンションを気にして身動きが制限されることもなくなる」
「でもそれは…」
「足手纏いに、なりたくないんでしょう?」
「っ、それは…」
「大丈夫だよ。今だって、確かにここに上がってくる際に、外に警察の見張りみたいな張り込みの人間はいたけれど、私は難なく撒いてきた。私を構成員だと疑いもせず、ついでにいうなら、今頃はうちの護衛に伸されて夢の中」
ふふ、と笑うアキの自信に満ちた表情が鮮やかだった。
「敵に関しても同じこと。うちの護衛は、完璧だ」
「っ……」
それでも、俺は、頷くには。
火宮を、真っ直ぐに見ていたかった。
たとえ火宮が、俺に情報の何一つを与えようとしなくても。
火宮が帰らぬ家で、1人悶々と過ごす日々が続こうとも。
俺は、蒼羽会会長、火宮刃のパートナーなんだ。
すべてを覚悟の上で、全てを背負って隣に佇むことを選んだのだから。
自身のすべきことを、決して見誤ってはいけない。
「アキさん…」
「ふふ、それでもまだ、頷かないか。分かった」
「え…?」
「じゃぁ聞いてあげる」
「へっ?」
「火宮…は出そうにないから、あの幹部でいいや」
「あの…?」
ケロリと言い放ったアキが、何やら懐からスマホを取り出し、呑気にその画面をタップしている。
「あの、アキさ…」
「シィーッ」
スーッと息を吐き出して、片手はスマホを耳に、もう片方の手は指を立てて口元に。悪戯っ子みたいなウインクを飛ばしたアキが、口元に弧を乗せる。
その唇が、にんまりと笑った形のまま、ゆっくりと流暢な英語を紡ぎ出した。
『Hello。蒼羽会幹部、真鍋?』
「っ!」
相手の声は聞こえない。
けれどもアキの言葉は聞き取れる。
『翼を…。うん、そう。…え?あぁ、聞こえたよ。うん、うん。じゃぁいいんだね?』
にこりと崩れるアキの顔は、どうやら思い通りに事が運んだ様子で。
「サンキュー」という綺麗な発音の英語の後、トンッと切られた通話から離れたアキが、にっこり笑ってこちらを見た。
「いいって」
「え…?」
「真鍋って幹部が。私と遊びに出掛けても、いいんだって」
「う、そ…」
「何か、近くに火宮もいたみたいで、後ろに尋ねた声も丸聞こえだったんだけど、火宮もね『そうだな、翼も閉じ込められている状態が長いし、気分転換になるならば、いいかもしれない』って」
「え…」
「『確かに今、翼がこの近くから離れていてくれる方が、助かると言えば助かる。連の保護下なら、警備に不安はないのも確かだ。翼が望むなら、連について行かせて構わないぞ』って。聞こえてきたよ?」
もう切れてしまったスマートフォン。真っ暗な画面をこちらに向けて振って見せて、アキが笑う。
そのディスプレイには、呆然とした俺の顔が薄っすらと映り込んでいる。
「火宮さんが…?っ、俺が、遠ざかっていた方が、火宮さんの足手纏いにならない…?」
ぽつりと落ちた呟きは、なんだかするりと心の隙間に落ちた。
だけど。
「う、そだ…。火宮さんが、そんなこと言うわけ…」
くしゃり、と握り締めた拳が、ふるりと小さく震えた。
「っ、確かに、俺がいたところで何ができるわけでもないけれど。なんの力も持ってはいないけど、だけど…」
俺がここにこうして大人しくしていることが、火宮のためになると思っていたのに。
睡眠不足も疲労も溜めて、それでも時々は家に帰ってきてくれる火宮だから。
俺はただ、その度に無事で元気な姿を見せてあげて…。
「っ…」
不意に、数日前の夜、火宮に「おまえは何も気にしなくていい」と言われた言葉を思い出した。
「おまえは俺が必ず守る」と言った火宮の言葉が蘇る。
「俺は、蒼羽会会長、火宮刃のパートナーだから、ちゃんと聞き分けて…」
大人しく家にいたんだ。そうすることが正しいから。
だけど。
「それでもなお、気を遣わせている…?」
するり。溢れ出た言葉は、ザクリと俺の胸を刺した。
ならば。
「俺がアキさんと行けば、火宮さんが俺を気にしないでいられる。気懸かりが減って、もっと楽に動けるようになる。なら…」
そっと顔を上げた俺は、アキに向かってコクリと頷きを返す。
ふわりと微笑んだアキが差し出した手を、俺はするりと取った。
いつもなら、そんな戯言を信じるはずがなかった。
火宮が僅かでも俺を、余所に預けるような真似。そんな選択。
するわけがないと、分かったはずだった。
ましてやあのアキだ。因縁浅くない。
火宮の嫉妬深さも何もかもを忘れていた俺は、それなりにストレスで参っていたのか。
火宮に邪険にされる日々で、苛立ち心が揺れてしまっていたのか。
俺は、火宮に自らの手で連絡を取り、確認することなく、アキの手を取り、ついて行った。
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