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第687話

ブォン、と走り出した車内の窓から、見慣れたマンションの外観が遠ざかる。 アキが言うように、確かに、黒幇は六合会、最強中国マフィアと名高いアキたちの仕事は完璧だった。 「この変装。誰も俺が翼だなんて、思いもしないだろうね」 何せ目深に被ったキャップはさることながら、その下に被されたウイッグは、サラサラのロングヘア。 念には念をとその上から重ねて被されたのはパーカーのフードで、アキと腕を組んでしまえば、正体不明のどこぞの若いカップルだ。 もちろん、マンションの外にはすでに伸されてしまったという張り込みの刑事の姿もなければ、うちの護衛も敵の見張りらしき人間も見当たらなかった。 「完璧、の言葉の意味がよく分かる」 それでもなお、変装という警戒を怠らない。 念には念を入れ、さらに念を重ねるその油断のない行動に、俺は感心しきりだった。 [ふふ。それくらいしないと、出し抜けないからね] 「え…?」 ぼそりと小声でアキが何か言った言葉が聞き取れなかった。 「中国語?」 「ん?いや、何でもないよ。こちらの話」 「そう、ですか」 何か少しだけ不穏な空気を感じたんだけどな。 ケロリと微笑むアキの笑顔に屈託はない。 まぁ何か適当な独り言なんだろうと納得して、アキの笑顔から車窓の向こうに視線を移した。 ゆるり、ゆるりと見慣れた街の景色が流れ、のんびりと車に揺られ、過ぎ去っていく街並みが遠ざかる。 ぼんやりとその景色を眺めながら、「どこへ向かっているんだろう?」だなんて、あまりに呑気な、呑気すぎる思考に嵌っていた俺は、ふと気づいた。 「え…?」 「ん?どうしたの、翼」 「え?あれ?はっ?えぇぇぇっ?」 「翼?」 あぁ、俺ってば一体どこまで馬鹿なんだろう。 警戒しきりのアキに対して、あまりに自分の警戒心がなさすぎる。 アキと出掛けるとは言ったけど、その行き先を聞きもせず、どうしてここまで平気で車に揺られていられたんだろう。 俺は一体…。俺は…。 「っ…アキさんっ、あの、ものすごく今さらなんですけど…」 恐る恐る振り返った車内のアキは、にっこりと、楽しげな笑顔を浮かべていて。 ヒクリ、と引き攣った俺の背後では、ビュォォォッとものすごい勢いで、車窓の向こうを流れていく景色があった。 つまりはそれは、優に時速80キロは超えているスピードが出ていることを証明していて。 「ここ、高速道路ですよね…?あの、この車は一体どこに…」 みなまで言えずに口元をピクピクと痙攣させた俺は、アキの笑顔がにんまりと深くなったことに絶望した。 「ふふ、本当、翼が可愛い」 「アキさんっ?」 「ものすごくしっかり者かと思ったら、ところどころこうして抜けているんだよね。最高だよ。本当、最高だ」 火宮が羨ましい、と笑うアキに、俺はまったくそれどころではない。 「あのっ?」 「くすくす、あぁ、行き先が知りたいんだったね。まぁお気づきの通り、他県」 「っ!」 「温泉宿にでも行こうかとね」 「お、んせんっ?!」 「日本の温泉っていうのに興味があってね。たまにはのんびり羽根伸ばし。そこに翼がいるなんて最高だと思わない?」 楽しい以外の想像がつかないよ、と無邪気に笑うアキに、俺は全力で頭を抱えた。 「だぁぁぁっ、他県。断りもなく、勝手に他県…」 確かにアキと遊びに行く、って許可は出たらしいけど、それが他県って予測は真鍋たちはしているんだろうか。 「しかも、温泉宿って、まさか泊まりっ?」 「うん。2泊か3泊か」 [それはあちら次第] 「なんて?」 最後に何か、不穏な中国語が聞こえた気がするんだけど。 「ん?」 キョトン、と不思議そうな目をしてこちらを見るアキの顔を見る限り、俺の聞き間違いだろうか。 「まぁ、大丈夫だよ。もし火宮たちの反応が心配なら、こちらの行き先はメールで伝えておいてあげるから」 「本当ですね?」 「うん。むこうはゴタゴタバタバタしているんだもん。きっと平気だよ」 クスクスと笑うアキが請け負ってくれると、なんだか本当にそんな気がしてくるから不思議だ。 「じゃぁお願いします」 伝えさえしておけばとりあえずは安心だろう。 なんでこの時、アキの言葉をすんなり信じて、アキに連絡を任せっきりにしてしまったのかは分からない。 だけどただ、その言葉だけで俺は大人しく、アキと泊まりで温泉宿に行く、ということに、なんの抵抗もなくなってしまったことは確かだった。

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