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第688話
そうして車に揺られること1時間と少し。
たどり着いた場所は、オーシャンビューがとても綺麗な、紅葉も目に美しい、高台にある立派な温泉宿だった。
「うわー、貸し切り…」
さすがというか、やはりというか。
火宮たちのそれでだいぶ慣れてはいたものの、今回は離れどころか、宿一棟丸ごと貸し切りの様子で。
他の宿泊客は一切おらず、どこをどう使っても構わないと言われた俺は、相変わらずな庶民感覚が頭を出して、少々怯んでいた。
「ふふ、さすがに六合会首領が滞在するんだ。そうとは知られずにいるとは言え、警備上他の客を入れるわけにはいかないからね」
「まぁ、そうですよね」
それは納得なんだけど。
「その分こっちは過分に握らせているから大丈夫だよ。翼が気にすることじゃない」
「……」
くすっと悪戯っぽく笑って、手でお金のジェスチャーをするアキに、生々しさの不快感と呆れが半分ずつ。
「ま、さらに七重組理事の情人の安全確保が加わったわけだし。むしろベストな選択だったよね」
警護対象者が2名。決して大袈裟でも何でもない、と言うアキに、俺は、俺の尻込みも理解した上で受け入れろと強要してくるアキに、なんだかホッと心が温まっていた。
「そうですね」
アキは、俺を敢えて現実から遠ざけようとはしない。
怯むのは勝手だが、おまえも護られるべき立場にあるのだ、これは当然の処遇なのだから受け止めろと突き放してくる。
それが、嬉しくて。
「あぁ…」
あぁ、そうか。
アキは、俺を対等な友人として見る。俺を蒼羽会会長、七重組理事のパートナーである人間だと、ちゃんと扱ってくれているんだ。
火宮は、しなかった。
「あぁ…」
そうか。火宮の過保護さに、俺の心は疼いたんだ。
俺は蒼羽会会長の唯一のパートナー。その覚悟も自信も、俺はしっかりと持っていたのに。
火宮は俺を現実から遠ざけ、火宮の邪魔にならないために家に引きこもる俺に、すまないという態度をしてみせた。
俺が、火宮のためになるように、火宮の利となる動きをすることは当たり前のことなのに。
その、俺の我慢を、火宮は自分のためにとか、自分のせいでとか、そうやって自分で背負い込んだ。
情報を制限したことも、俺に一切を語らなかったことも、「こちらのことはこちらで」と言った、その言葉も。
「悔しかったんだ、俺…」
遠ざけられた。その、過保護さが。
有事の際に、火宮の命に従うこと。当然のように護られ、また自らも自分の身を守るよう行動すること。
それは、蒼羽会会長のパートナーである俺の、当然の務めだ。
決して火宮のせいではなく、俺がそうあると望んで、そうすると決めて立った場所なのに。
だからこそ俺は、権力が増えれば敵も危険も増えると分かった上で、火宮が理事になることを後押しした。
「翼…?」
うっかり自分の思考に嵌ってしまったんだろう。
アキの窺うような声が聞こえて、俺はハッと現状を思い出した。
「あ、すみません」
「いや、いいんだけど、大丈夫?」
「はい。大丈夫、っていうか、なんだかすごくムカムカしてきました」
「そう…」
「あっ、アキさんにじゃないですからね?あの過保護なバカ恋人にです」
「すごい言い方。七重の理事をバカなんて言えるのは翼くらいだ」
「だってバカなんですもん。分かっていますよ?それが火宮さんの愛情で、俺のこと、ものっすごく大切にしてくれているんだってことは」
少なくとも残酷なほどに、最愛の恋人としては扱ってくれている。
むしろ溺愛されていると言ってもいい。
「でもそれだけじゃ物足りないって思うのは、俺の我儘ですか?違いますよね?」
「ふふ、そうだねぇ…」
意味ありげに目を細めるアキにも、なんだかイライラとささくれだった気分が募った。
「どうせっ、何にも出来ないのは分かってるんです。俺はヤクザのことに関しては無知で、無力で。だけどその中でも、精一杯自分の立場の務めを果たそうとしている俺に、あれはないです」
「クスクス」
「俺には言えないことがあったっていい。俺に愚痴らないことが、火宮さんの心の平穏を保てるなら、それだって構わない。だけどただ、一線を…こちらのことは、って、ピシリと線引きされるたのが…っ、モヤモヤする」
ぶすくれた表情を浮かべているのは分かっていた。
それを見たアキがクスクスと楽しそうに笑っていることも。
だけどムカムカと湧き上がった胸のムカつきが収まらない。
「ふふ…」
「何ですかっ?」
「まぁねぇ。私は第三者だから」
(どっちの気持ちも面白いほどよく見えるんだよね)
「アキさんっ?」
にまにまと、楽しそうに笑っているアキの空気が、なんだか不穏だ。
「いーや、それで?じゃぁ、あまりに火宮が腹立たしいから、家に戻って、火宮を問い詰めにでも行く?」
「っ…それは」
「俺も蒼羽会の一員だ。情報を寄越せ、1人蚊帳の外に置いておくな、って怒鳴りに行こうか」
さらりと放たれたアキの言葉に、俺は反射的にふるりと首を振っていた。
「そう、することで、今の状況、火宮さんにどれだけ迷惑を掛けるか、判断できないほど子供じゃないんです」
「へぇ?」
「俺が、俺の激情で、今、何者かに狙われて、寝る間もないほど忙しく対応に追われている火宮さんの側に、チョロチョロと顔を出すことが何を意味するのか。分からないほど愚かじゃないです」
何のために俺は火宮たちから遠ざかったのか。
どうして大人しくマンションで過ごしていたのか。
俺には、俺の、役目がある。
「腐っても蒼羽会会長、火宮刃のパートナーですよ?」
俺は出来るんだ。ちゃんと、何が正しくて、どうするべきかの判断は。
「ふふ、ご立派」
「っーー!だけど…」
「翼?」
「だけど、それを分からないで、籠の中で大事に大事に愛でるだけの火宮さんはムカつくから…」
「つばさ?」
「思い知ればいいんだ。気分転換?蒼羽会関係の事件から遠ざけておく方が安心?なら、思い切りしてあげるっていうんだ」
「あれ?翼ー?」
「せいぜい目一杯、アキさんと温泉旅行を楽しんでやるんだから!」
ふんぬ、と奮起して背筋を伸ばし、ドーンとド派手に宣言してやる。
隣でアキの声が裏返っているのは気にしない。
「バカ火宮」
んべー、と大きく舌を突き出し、目の下をぐいーと引き下げる。
盛大なあかんべーを向ける先は、遥か100キロ近く離れた火宮がいる方角で。
[ふふ、それでこそ翼]
「え…?なんて?」
時々、アキが何か分からない中国語を呟くんだよな。
俺も中国語も勉強しようかな。
コテリと傾いた頭の中で、のんびりとそんなことを考えながら見つめた先で、アキの目元と口元が鮮やかに弧を描く。
「ううん、やっぱり、楽しいしかない。部屋、行こうか」
贅沢なお部屋みたいだよ、と笑うアキに誘われて、俺は差し出されたその手をするりと取った。
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